自分を知る…。
自分とは何か。私とは誰か。
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私とは誰か。
「私」という主体は、一体、誰なのか。
体なのか。
感覚器官なのか。
マインド(意志)なのか。
理性(知性)なのか。
ハートなのか。
それとも、それらを超えた何かなのか。
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अहम् ब्रह्मसुमि
aham brahmasumi
アハン ブラフマースミ
我はブラフマンなり。
祝福は、常に降りそそがれている…。
・~祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり~・ 古の直観でも「変わりゆくこと」がこの世の本質。では変わらないものとは何か。 本来のヒトは「存在の顕れ」。
「BABAJI - The Divine Himalayan Yogi」より引用。
(著者 Swami Satyeswarananda Giri)
非常にわかりやすく簡潔に「この世とマインド」とは何であるかを語っている、聖者ババジの質疑応答を紹介したい。
The World and the Mind
この世とマインド
(註)マハー・アヴァター・ババジ(Maha Avatar Babaji、伝承では203年11月30日生)とは、ヒマラヤで隠棲している不老不死の聖者。
マハーは「偉大な」、アヴァターは「神の化身」、ババジは「聖父」を意味する。
ババジは、『あるヨギの自叙伝』の著者、パラマハンサ・ヨガナンダの師匠スリ・ユクテスワ、そのまた師匠ラヒリ・マハサヤのグルである。
彼の姿を見た人の話では、若々しく、肌は健康的な褐色、髪は赤褐色の長髪で、その体は常に金色のオーラに包まれているという。
Q)この世とは、何でしょうか?
MB)この世とは、「ウチなる音:オーム、アーメン、アーミンなど」と、「その音が置き換えられたもの」以外の何ものでもない。
この世は、5つの感覚器官に対応する「対象物」で構成されている。感覚器官の5つの感覚を通して感じ取る 『感覚刺激』をあなたのマインドが認識し、あなたはこの世を見るのである。
このようであるとき、この世はマインド以外の一体何によって構成され得ると言えるだろうか。
この世は、相対的である。認識するマインドにとって、相対的なのだ。
この世を眺めていると、例えば人は、その人が正しいと感じた思いや考えを、それがどれほど真実であるかを他者に証明しようとして、根拠を探りロジックを展開している。しかし、うまくいかないことが多いだろう。なぜなら、まずその考えを思考する自分自身を正しく知らないからだ。
自分自身(知る者)についての真実を知らない探求者にとって、相対界に生じた「ある対象物」に関する理解が、一体どうやって真実であり得ようか?
あなたが、自分(主体)の背後にある真実を完全に知るとき、無知、部分的な知識、理解そのもの(錯覚にとらわれた、これら3つの状態)は、自動的にやむことだろう。そのときにのみ、あなたは完全に、絶対的な知識または真実に確立されうる。
Q)我々の前に、この世が最初に現れたのはいつですか?
MB)あなたが眠りから覚めたとき、真我の光である一筋の光が現れ、そしてその光は、宇宙意思(または宇宙知能)を通り抜ける。
(参考)
「我は世の光である。」ヨハネによる福音書9:5
その光は、エゴに降りる。そして光はエゴに反射し投影されていく。(訳者註:例えて言うと、エゴがプリズムのような働きをして、透明な光は屈折され、様々な色が表現される。)
投影された光(エゴを通過した光)であるが故に、個別の肉体やこの世が現れ(色づく)、そして肉体やこの世は、マインドの様々な作用によって知覚されるのである。
あなたのマインドがこのエゴを通過した光で照らされると、そのマインドはこの世を認識する。そして結果として、あなたはこの世を見るのである。あなたのマインドがこのエゴを通過した光に照らされていないときは、マインドはこの世を認識しない。
実はあなたは、自身のウチなる真我を忘れることによって、この世の対象物を見ているのである。
あなたが五感覚からも退き、真我(サマーディの状態)に深くとどまるとき、この物質世界をあなたは見ることはできないだろう。事実はその通りである。
Q)この世は、本物ですか?
MB)もしあなたが、マインドが存在するかどうかについて本気で探求するならば、マインドは存在しないことを見出すだろう。それは、単に根拠のない説に過ぎない。
もしあなたが、「このマインドとは何か」を知りたいと本気で探求するならば、マインドは思考のかたまり以外の何ものでもないことを見出すだろう。そして思考は、エゴなくして存在することができない。エゴとは、ほとんどの人の非常に親しい友人ではあるが。
しかし、もしエゴ氏がどこから来るのかをあなたが知ろうと探求するならば、すると、それ以外の思考は簡単に消えていくことに気づくだろう。なぜなら、思考とは、マインドによって想像されたものだからだ。
したがって、マインド、思考、エゴは、全て根拠のないものであることがわかる。
つまり、実体がないのだ。
あなたが、それらを本当に存在していると受け取めているだけで、自分で自分自身をトラブルに巻き込んでしまっているのである。この世はマインドの投影であり、マインドは実体がないとすると、この世はどうやって実在であり得ようか?
Q)例を挙げて、説明していただけますか?
MB)例えば、映画のスクリーン上で、ある人物が世の中全体の動きを見ているとしよう。
映画上で、この人物が主体であり世の中が客体であるが、スクリーンの背後にあるリアリティ(実在)、つまり本当の主体(知る者)と客体(対象)を識別することが、この人物にできようか。
幻影の人物が幻影の世の中を見ていることが、非常によくわかることだろう。「あなたとこの世の中」とは、正に「映画に登場した人物と世の中」と実質的には同じである。
Q)この世とマインドは、相対的なものであり、また、この世はマインドの投影で、かつこの世とマインドは同義的であるとおっしゃっていますが、これについてコメントしていただけますか?
MB)この世は幻影(マーヤ)であり、また、外側に表現された外観あるいは多様性の表現でしかないので、この世について話すことは有益ではない。
この世とマインドは同じものの別な表現でしかなく、現れては消える。しかし、そのうちの客観的世界(この世)がどのように表現されるかは、単独でそのマインドに依存する。
全く動きのない(現れることもなく消えることもない)、唯一無限なる純粋意識においては、それら二つは分けることができず、現れては消えていく現象に過ぎない。ここでいう純粋意識とは、究極の真我のことである。
Q)人は、どのように真我を実現するでしょうか?
MB)「マインドとは何か」と本気で探求し続けるならば、そのとき自動的に、この世またはマインドから離れるだろう。またその探求をしている間は、思考が消えていることに、あなたは気づくだろう。
最終的に、あなた自身のマインドの背後にある、内側深くに存在する「何か」を、あなたは見出す。
それは、真我の純粋な意識である。
Q)マインドと真我の関係性とは、何でしょうか?
MB)探求において、あなたは、マインドが独立して存在していないというリアリティ(実体)に気づくだろう。
真我は、マインドがなくても存在する。マインドは、真我がなければ存在し得ない。あなたのマインドがそうであるので、あなたにとってのこの世も同様で、真我なく存在し得ないものなのである。
エゴと知性(Intellect)
Q)エゴとは、何ですか?
MB)エゴとは、マインドの別の名前である。
Q)それは、エゴも実在ではないという意味ですか?
MB)その通りだ。例えば、あなたは寝ているとしよう。そのとき、不完全であり無知であるという感覚はない。それと同じように、エゴそれ自体が、不完全であり無知なのである。
Q)エゴの主な特徴は、何でしょうか?
MB)エゴとは、ゴーストのようなもの。独立して存在しないものである。
Q)エゴは、どのように生じるのですか?
MB)エゴは、真我の純粋な意識と物理的な身体の間で生じ、それらの間で活動している。
Q)エゴの真実の姿は、どのようなものでしょうか?
MB)思考が、エゴの対象物だ。エゴは、思考に付着している。例えば、芋虫は決して今掴んでいる葉を次の葉を掴むまで離さないが、これに似ている。
エゴは、同じように思考から思考へと移動している。もしあなたが、思考と思考の隙間(瞬間)において、エゴを見つけようとエゴを観察し続けることができれば、あなたは、エゴの真実の姿を理解することができるだろう。
驚くに十分であるが、あなたはエゴが非実在であることに気づくだろう。そして、その思考と思考の隙間において無思考であるとき、あなたは、真我の真実の姿を悟るであろう。
この世は、エゴに基づいている。思考と思考の隙間において、あなたがもしエゴは非実在であると気づけば、この世も実は非実在であることに気づくだろう。
それと同時に、真我の真実の姿を悟るとき、あなたは究極の真我の純粋な意識の内に、自身を見出す。そしてそれに合わせて、「この世」の代わりに、「純粋意識」をどこにも見ることだろう。
Q)知性(ブッディ)とは、何でしょうか?
MB)知性とは、マインドの別の名前である。実に、マインド(マナス/意志)、エゴ(アハンカーラ/自我意識)、知性(ブッディ)は、「内的心理器官(アンタカラナ)」に対する別の用語である。
(訳注:内的心理器官は、通常4つあるとされる。マナス(意志)、ブッディ(知性)、アハンカーラ(自我意識・エゴ)、チッタ(ハート))
Q)では、知性も不完全なものであるということですか?
MB)そうだ。人々は通常、「私の知性では」等という。つまり、知性は彼らに帰属しているということだ。そのような個人に帰属する知性は、本来の理知ではない。
しかし、知性は、真我なく存在し得ないものだ。
真我は、不変の実在である。一方、知性は、単に一つの事象である。
例えていえば、夢の中で、知性が寝ているとするならば、夢は自然に起こった現象に過ぎないと見なされる。これと同様である。
聖なるガンジス川 降下の神話
ガンジス川とは、如何なるものか?
空界(天上界)の清浄な流れであったガンジスは、神々の求めにより一旦天界へ昇り、次に人の魂の穢れを清めるために、地上へ降下したといわれる。
地上に降下し、人々の罪や穢れを清める、最上なる川といわれる大河。
山の神ヒマラヤの長女、ガンガ-女神が川の形をとったもの。
母なるガンガーとも呼ばれる。
ガンジス川の全長は、2525mとされ、最後はベンガル湾に注ぎ込む。
ヒマラヤの標高3892m、ガンゴートリ氷河の麓、ゴームク(牛の口という意味)と呼ばれる場所からバギラティ川が現れる。
このゴームクが、ガンジス川の源流だと考えられている。
ゴームクとその背後にそびえる、バギラティ峰
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神話によると、
アヨーディヤー国王の威徳に輝くサガラ王が、ある祭式を執行しているとき、祭式用の馬が盗まれた。
王の命令により、サガラ王の6万人の息子たちが、全ての土地を追跡し、祭馬を発見するまで大地を堀り尽くしていった。
地下界を掘っていくと、王子たちは、東の方位に大地を支えている山のような『方位の象』を見たという。
「大象ヴィルーパークシャは、山も森も含めて全大地を頭で支えていた。
時節の変わり目になって、この大象が疲れて、疲労を休めるために頭を振ると、そのとき地震が起こる。」
(引用:新訳ラーマーヤナⅠより)
南の方位には、マハーパドマ象が、
西の方位には、サウマナサ象が、
北の方位には、バドラ象が、頭で大地を支えていた。
王子たちは、次に東北の方向へ進んだ。
(東北は、イーシャ神(シヴァ神)の方向である。)
そしてそこには、クリシュナ神の化身である聖仙カピラがおり、また盗まれた馬もいた。
王子たちは、カピラが盗んだのだと思い、怒りにまかせてカピラに襲いかかった。
しかし、聖仙カピラが放った「フン」という怒りの声によって、6万人の王子たちは灰の塊にされてしまった。
サガラ王は、遠くへ行ってしまった王子たちのことを知り、今度は孫アンシュマトに叔父たちの後を追って、必ず馬を連れ戻すようにと命じた。
アンシュマトは、叔父たちが掘っていった地下界を進んでいき、四方位の守護象に礼儀正しく敬意を表した。
そして、叔父たちが灰の塊にされたところへ行った。
アンシュマトは、叔父たちが灰の塊にされてしまったことを非常に悲しみ、何とか水供養をしてあげたいと思って水を探したが、見つからなかった。
すると、風のように早い鳥の王、スパルナ鳥が現れて、次のように言った。
「人中の虎よ。悲しむのはおやめなさい。この殺害は、世界に幸福をもたらすものですよ。(何故なら世界に幸福をもたらすガンジス川が、彼らを清めるために天界から地上に降下する原因となるのだから。)
この者たちは大力であったが、無量の威力を持つカピラによって焼き尽くされました。
だから、英知の者よ、この者たちを俗世の水で供養しても、効果はありません。
人中の虎よ、偉大なる腕の持ち主よ、ヒマラヤの長女のガンジス川の水で、叔父たちへの水供養をしなさい。
世界を清める彼女は、灰の塊となったこの者たちを洗い清めるでしょう。
そして、この灰が世間の人々の愛するガンジス川の水で濡れると、6万人の王子たちは天国へ行くでしょう。
大きな幸運の者よ、馬を曳いて出発しなさい。勇士よ。そして、祖父の祭式を完成させなさい。」
(引用:新訳ラーマーヤナⅠより)
祭馬が戻り、祭式は完了された。
サガラ王は、ガンジス川を地上に降下させる方法を見いだし得ないまま、3万年という長い間、王国を統治してから天界に昇ったという。
次に王位を継いだアンシュマト王、その息子ディリーバ王も、ガンジス川を地上に降下させて水供養をする方法を見つけられなかった。
ディリーバ王の息子であるバギラティ王は、ラージャ・リシ(王仙)であった。
バギラティ王は、国民と王国を大臣たちに任せて、自分はガンジス川を地上に降下させるために、厳しい苦行に専念した。
恐ろしいまでの苦行を1千年も堅持していると、祖父神梵天が現れ、願いを叶えてもらえることになった。
しかし、直接ガンジス川が地上に降下すると、大地はそれを支えることはできないであろうから、最初にシヴァ神に受け止めてもらうようにお願いせよと言われた。
バギラティ王は、梵天が去った後、足の拇で大地に立って、1年間シヴァ神に敬意を捧げた。
シヴァ神は、バギラティ王の苦行に満足して、ガンジスを頭で支えることを約束した。
そこで、ガンジスは激流となって、虚空からシヴァ神の頭の上に落ちた。
ガンガー女神は、奔流によってシヴァ神を摑まえて、自由気ままに好きな方へ流れようという高慢な考えを持ったが、シヴァ神はこれを知って怒り、シヴァ神の束ねた髪の中から出られなくさせてしまった。
数年間、シヴァ神の髪の中から出口を見つけられなかったガンガー女神だったが、バギラティ王が再び最高の苦行を捧げ、それに満足したシヴァ神は、ガンジス川を地上に放出した。
ガンジス川が放たれると、7つの流れが生じた。
7番目の流れは、バギラティ王の後を付いて流れた。
光り輝く、汚れのない清らかな水は、はじめにシヴァ神の頭に落ちて、再び地上に落ちた。
「シヴァ神の身体から落ちた水は、罪を清めてくれる。」と、呪詛により天界から落ちた天人や人々は、その水で沐浴をした。
バギラティ王の進む道、それがガンジス川の進む道となり、全ての罪障を清めながら流れていった。
それから、激しい流れであるガンジス川は、途中で偉大なジャフヌ仙が祭式を行っていたアシュラムを、水浸しにして壊してしまった。
ジャフヌ仙は怒って、ガンジス川を全て飲み干してしまった。
バギラティ王の祈祷を受けて、ジャフヌ仙はガンジス川を耳から、ムクバという地で放出した。
ジャフヌ仙の娘となって流れ出たので、それに因んで、ジャフナヴィー川とも呼ばれる。
再び、ガンジス川はバギラティ王の後に付いていき、大海に達した。
大海に達した後、バギラティ王はガンジス川と共に地下界に入って行き、灰にされて意識を失った叔父たちに、ガンジスの光り輝く水を注いだ。
かれらは、罪障を浄められて天国へ昇っていったという。
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ゴームクの背後にそびえる、Mt.Shivling
バギラティ川と合流するアラクナンダ川は、ナンダデヴィ峰、トリスリ峰、カメット峰などの頂からの雪解け水が小川となって流れこみ、
ヴィシュヌプラヤグでダウリガンガ川と合流し、
ナンダプラヤグでナンダキニ川と合流し、
カルナプラヤグでピンダール川と合流し、
ルドラプラヤグでマンダキニ川と合流し、
デーヴァプラヤグでバギラティ川と合流し、
ここからガンジス川と呼ばれる。
(以上は、パーンチ・プラヤグと呼ばれる5つの川の合流点。)
om namah shivaya
オーム それは 真理なり。
全ては、それ なり。
あれも、それ。
これも、それ。
満ち足りし完全なり。
創造の根源。
絶対の存在。
自然法の源泉。愛の源泉。豊かさの源泉。
この真理なる 至高の光が、全てのものには浸透している。
絶対なる真我(プルシャ)の光。
ああ、全てに浸透している、真我の光よ。
吾、すべてにこの純粋な光を観る。
生命は、全き完全なる光の顕れなり。
全き完全なる光を宿す生命も、また完全なり。
神に愛されて生まれ出でた「ヒト」こそ、
完全なる光「ヒ」を「ト」どめ顕す存在。
麗しきものなり。
ヒトよ。
汝が内奥に、完全が在る。
完全なる調和を求めよ。
完全なる健康を欲せよ。
完全から、完全はあふれ出すものであるから。
これに疑いは無い。
om tat sat.
合掌
チダムバラムのナタラージャ寺院
南インド、タミルナードゥ州。東経79度41分、北緯11度23分に位置する。
アカーシャ(空の元素)・リンガムが祀られている寺院。
シヴァ神が、ターンダヴァのダンス(宇宙創造の踊り)を踊られているといわれる地。
踊る(ナタ)ラージャ(王)とは、シヴァ神の呼び名である。
また、ナーガ族の長であるアナンタが、聖者パタンジャリーの姿を取ってこの地に現れ、この重要な地でどのような祭祀を行うことが求められるのかを、正しく教義として残したとも言われている。
アカーシャは、この世の全てを成り立たたせている基盤であるから…。
ウチなる導きのコエは、アルナーチャラのアグニ・リンガム、シュリ・カラハスティのヴァーユ・リンガムの次に、チダムバラムのアカーシャ・リンガムに参拝し祈祷するようにと宣う。
火 → 風 → 空 → 水 → 地
この順序で回るようにと。
何故なのだろうか。
ガイドブックには、「本堂内は、他の寺院と同様に、ヒンドゥー教徒以外の立ち入りはできないが、外から中のプージャの様子を眺めることはできる。」と書かれていた。
白い巡礼用の衣服を身につけ、額に赤いティカとヴィブーティ(聖灰)を塗り、いざ参拝。
有り難いことに、すんなり本堂に入ることができ、プージャもしていただいた。
また、アカーシャ・リンガムも、近いところから拝ませていただいた。
にもかかわらず、多額の寄付を要求してきたりしなかった。
今までに、インドではないことだった。
そこでまず、寺院全体を回り、ごあいさつを済ませたあと、本堂の前に立ち、アカーシャ・リンガムの前で静かに祈祷をさせていただいた。
一人一人の心に平安(シャンティ)を。
世界に平安(シャンティ)を。
地球に平安(シャンティ)を。
om shantih shantih shantih.
観光的な要素が増える寺院が多い中で、ナタラージャ寺院は、平和的な穏やかな波動を湛えていた。
そして、謙虚に人々のために祈るということをし続けているブラーミン(神職)たちがいてくれたことが、大変嬉しかった。
どうか、これがこれからも続いてほしいと、心から祈念する。
om namah shivaya.
合掌
水の元素を祀る、アップー・リンガム
南インド、タミルナードゥ州にあるティルチィ、あるいは、ティルチラッパリと呼ばれる町。
ここに、ジャムブケシュワール・テンプルがあり、アップー・リンガム(水の元素のリンガム)が祀られている。
ひっそりとした、侘び寂びを観じるような寺院だった。
かつて、ここはジャンブーの森があり、その木の下で、クモとゾウがシヴァリンガを祀る方法を巡って争ったという話が伝わっている。
本殿の聖所は、水を湛えた床下にご神体のシヴァリンガが祀ってある場所。
ここで、祈祷を捧げた。20-30分位だったか。
その間、他のインド人参拝者も、ブラーミンも、誰も邪魔しなかった。
シヴァ神のご加護に違いない。
本来は、ヒンズー教徒以外入れないことになっているのだが。
水の元素を正しく司り給え。アップー・リンガムよ。
om namah shivaya...
aum tat sat.
合掌
南インドの聖地、シュリンゲリ
南インド、カルナータカ州の州都バンガロールからバスを乗り継いで、聖地シュリンゲリへ向かった。
8世紀にヒンズー教を立て直した、アディ・シャンカラという偉大な聖者は、シュリンゲリを訪れたとき、川の畔であまりの暑さにへばっていたカエルを、蛇が日陰を作って救済していたという光景を目にしたそうだ。
通常であればあり得ないことなので、ここは特別な地であるに違いないと観じ、ここに寺院を建設することにしたといわれている。
聖者アディ・シャンカラは、ヒンズー教の大切な神髄、聖なる教えの伝統を護る拠点を、東西南北に建立されたという。
南のシャンカラチャリアの座、シュリンゲリのシュリ・シャラダ・ピータム(カルナータカ州)。
東のシャンカラチャリアの座、プリーのジャガンナート寺院内(オリッサ州)。
西のシャンカラチャリアの座、ドワラカのカリカマート寺院(グチャラート州)。
北のシャンカラチャリアの座、バドリナート近くのジョシマート寺院(ウッタラカンド州)。
4つのうち、最初に建立されたシュリンゲリの寺院は、最も重要視される、ヒンズー教の伝統的な聖地とされているようだ。
靴を脱いで、寺の入り口から入ると、メインテンプルである、シュリ・シャラダムバ寺院。シュリ・ヴァイディヤシャンカラ&シュリ・トラナ・ガナパティ寺院等があった。
寺の中に流れるトゥンガバドラ川が、聖なる川とされ、ここで身を清めて、人々はテンプル等を参拝する。
川には、たくさんの大きな鯉、あるいは鮒が、餌を求めて集まっていた。壮観であった。
トゥンガバドラ川を渡って、別の建物へ向かい、ここを護る聖者シャンカラチャリア、シュリ・ジャガッドグルの謁見をいただいた。当代のジャガッドグルと、向かって左側に次代のジャガッドグルが座っていらっしゃった。
翌日の早朝、聖なる川、トゥンガバドラ川のほとりに座を構え、世界の平和と人々の幸福のために、プージャを行った。
鯉たちが、不思議な位、たくさん集まり、荘厳なさまであった。
その後、聖者アディ・シャンカラもこの辺りを歩かれたのだろうと想いながら、寺院の周りにある森林を歩いていると、古い小さなシヴァ神の聖所があることに気がついた。
ふと惹かれて近づいていってみると、初老のプリーストが招くので、祈祷を受けることにした。
そして、プラサードとして、バナナと菓子をいただき、聖所を出て歩き出した。
不思議なことに、このプリーストは、自分たちへのプージャが終わるとすぐに、門を閉じてしまったが。
すると、道の横に太陽の光線を浴びて、きらきら輝くコブラの抜け殻が目に付いた。
脱皮したばかりのようだった。目のガラスまで、脱皮されていた。
コブラは、シヴァ神が首に巻き付けている、聖なる生き物でもある。
これは、きっとシヴァ神の祝福に違いないと確信し、すこし頂いていくことにした。
この聖地巡礼で、コブラに会えるような気がしていたので、「これだ」という観じだったのだ。
om namah shivaya.
合掌
あるとき、「貴方が観じるシヴァ神を、日本語で表現してみなさい。」と後押しされたように観じられた。
そこで出来上がったのが、この讃歌だ。
シヴァ神の讃歌(Shiva Stortram)
om 根源なる意識よ。
om bijam.
あらゆる想いの種は 展開されて 万物の姿形となりゆく。
根源なる意識は 宇宙の全てに浸透し、万物は 内に純なる光を秘める。
om シヴァ神という御名により あらゆる創造プロセスを担う 全能なるお方よ。
ミチミチとせし純粋の 根源なる『ム』と、この世のつなぎ目に始まりを置き、
1000の御名で呼ばれるごとく あらゆるエネルギーを現象化なさるお方よ。
カイラス山の頂きに鎮座して 生きとし生ける全てものに祝福を降りそそいでくださる、マハーデーヴァよ。
om namah shivaya. om namah shivaya. om namah shivaya.
om 途切れることのない「不滅なる意識」の顕現者よ。
始めなく終わりのない、光輝く光の流れ(ジョーティル・リンガ)よ。
無明を滅ぼし、無知から解放してくださる、不滅なるお方よ。
om アイの泉 歓びの泉 創造の源泉 至福のウミよ。
不変不滅なる流れが 刹那刹那に湧き上がり 途切れることなくあふれ出し、全てのイノチを潤している…。
この究極なる真理に 目覚めるように導いてくださる 全知なるお方よ。
om 至福のウミより湧きいずる 聖なる水を降りそそぎ、
浄化を起こし 甘露となりて
一つ一つの細胞を 光り輝かせてくださる 永遠なる実在よ。
究極の真理の具現者として、時に厳しく時に優しく、あらゆる進化を助けてくださるお方よ。
jai shiva shankara. jai shiva shankara. jai shiva shankara.
無知が取り払われ、ウチなる光明が自ら輝き出す。
老いや死のとらわれから解放(解脱)され、永遠不滅の意識を生きる。
永遠不滅なる意識が 『我』であることに疑いはなく、
『私は誰か』という問いからも解放され、真の自由の体現者となる。
この世においては転変が常であり、絶対界においては不変不滅である。
これらの真理を知らしめてくださる、根源なる意識よ。
真我の光を受けとるアートマンは、魂という馬車に乗り、進化の道のりを歩む。
御者である「知性(ブッディ)」は、手綱である「意志(マナス)」を使いこなし、
馬である「感覚器官(インドリア)」を制御して、アートマンは進む。
アートマン(個我)のマナスが、パラマートマン(神我・超我)のマナスへと変容されたとき、
それは、カイヴァリヤ(解脱)の状態だ。
この仕組み・メカニズムを知らしめてくださる、普遍なる真理の具現者よ。
『私から離れるな』と、力強い清さで抱いてくださった、愛しいお方よ。
『これは私だ』と語りかけ、一体であることを支えてくださった、慈悲深いお方よ。
今まさに、この空(身)に在れますお方は誰か。
空洞の竹筒を吹き抜ける風は、存在からあふれ出てくるもの。
即ち祝福、それしかない。
om tat sat