究極の「自分探しの旅」(1)

2012-03-18 Sun : 真我の探求
ओम् om

自分を知る…。

自分とは何か。私とは誰か。

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私とは誰か。

「私」という主体は、一体、誰なのか。

体なのか。
感覚器官なのか。
マインド(意志)なのか。
理性(知性)なのか。
ハートなのか。
自我意識なのか。
魂なのか。

それとも、それらを超えた何かなのか。

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अहम् ब्रह्मसुमि
aham brahmasumi
アハン ブラフマースミ

我はブラフマンなり。


祝福は、常に降りそそがれている…。



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究極の「自分探しの旅」(2)

2012-03-18 Sun : 真我の探求
 聖典とは、直知された真理が表現されたもの。
偉大な聖者たちが、具体例や比喩を用いて、周りの必要を満たすように可能な限りを表現してくださった賜物だ。
いつの時代にもずっと、人々の進化成長の道しるべとなってきた。

 聖典とは、読む度に読む者の欲している気づきがやってくる。
読む者の状態は常に変化している。ゆえに新しい気づきが常にやってくる。
そこに、大調和(源の満ち足りし完全)があるからだ。
 
 意味がわからなくても、音として耳から聴くだけでも、調和という質がやってくるようだ。

 例えば、ヨーガの聖典といわれる「パタンジャリのヨーガ・スートラ」は、心の特性に関して、非常に詳細に説いている。
 ぜひ、この聖典に触れて、心はコントロールができるものであることを、さらに、心の作用は超えることができることを、まずは知る手立てとしてみてはいかがだろうか。

 トニー・ネーダー医学博士は、ヴェーダ全体の構造が人間の身体の詳細な構造とそれぞれ一対一で対応していることを発見され、「人間の生理-ヴェーダとヴェーダ文献の現れ」(マハリシ総合研究所発行)に著している。特にこのヨーガ・スートラの構造は、大脳皮質の連合繊維の詳細な構造と一致しているという。
 第1章サマーディ・パーダは脳の後頭葉、第2章サーダナ・パーダは前頭葉、第3章ヴィヴーディ・パーダは頭頂葉、そして最後の第4章カイヴァリヤ・パーダは側頭葉に対応しているという。後頭葉は、視覚(観るという感覚神経)・認識を主に担っている部位である。

 まず、「パタンジャリのヨーガ・スートラ」の中で、最も根幹である第1章サマーディ・パーダを、次の記事に紹介してみたい。

 サマーディとは、純粋意識(真我)の直接体験という言い方もできる。
サマーディは、自然に自動的に準備が調うと起こるものであるが、個人の努力(障害になっているものを取り除くこと)によって、直接体験が起こる可能性が高まると教えている。

 サマーディの体験は、人間の姿形があってこそ生じる体験だ。最初は一瞬かもしれない。が、その一瞬は数分に、さらにはもっと長く数時間あるいは数日間持続できるようになる可能性がある。そして、ついには24時間永続するように、脳のフォーメーションが変容していく可能性があると。

 読んだり聞いたりしたことは、良いと感じたら、実際に自分自身で経験し確認するのがよい。すると、自己の内側で何か変容が起こる。
 試してみる価値が、あるのではないだろうか。

 聖典は原文のまま味わうのが最善であるが、これは中々難しい。
そこでできるだけ原典そのままが伝わるように、ローマ字による原文を表記し、シンプルな訳をあえて試みた。つたない訳ではあるが、多様性の表現の一つとしてお許しを願いたい。他に素晴らしい解説書がたくさん出版されているので、他の書物をご参照いただき補足をお願い申し上げることとさせていただきたい。
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パタンジャリのヨーガ・スートラ 第1章

2012-03-18 Sun : 真我の探求
Yoga Sutras of Patanjali
パタンジャリのヨーガ・スートラ

Chapter 1: Samadhi Pada
第1章 サマーディ・パーダ(「光明」との結合)

atha yoga-anuśāsanam ||1||
アタ ヨーガーヌシャーサナム
これよりヨーガを詳しく説く。

<参考>
ヨーガの本来の意味は、結合であり、例えば馬を車につなぐことである。
「安らぐ源に心をつなぐこと」と解することもできる。
あるいは、「神聖なるものに心をつなぐこと」ともいえよう。

yogaś-citta-vṛtti-nirodhaḥ ||2||
ヨーガシュ チッタ ヴリッティ ニローダハ
ヨーガの状態、即ち神聖なるものに心がつながると、心(チッタ)の作用は止滅する。

tadā draṣṭuḥ svarūpe-'vasthānam ||3||
タダー ドゥラシュトゥフ スヴァルーペー アヴァスターナム
そのとき観る者は、ただ「それ」本来の姿に安住する。

vṛtti sārūpyam-itaratra ||4||
ヴルッティ サールーピヤム イタラットラ
心の作用とは、心が「それ」以外の対象に同化している状態である。

vṛttayaḥ pañcatayyaḥ kliṣṭākliṣṭāḥ ||5||
ヴルッタヤフ パンチャタイヤフ クリシュタークリシュターハ
心の作用は五つあり、苦をもたらすものと苦をもたらさないものがある。

  ※無私の行為は、苦をもたらすことはない。

pramāṇa viparyaya vikalpa nidrā smṛtayaḥ ||6||
プラマーナ ヴィパルヤヤ ヴィカルパ ニドゥラー スムルタヤハ
正知、誤解、想像上の理解、睡眠、記憶である。

pratyakṣa-anumāna-āgamāḥ pramāṇāni ||7||
プラティヤクシャ アヌマーナーガマーフ プラマーナーニ
直接的知覚、推理、及び聖典による証言が、正知である。

viparyayo mithyā-jñānam-atadrūpa pratiṣṭham ||8||
ヴィパルヤヨー ミティヤー ジュニャーナマタドゥルーパ プラティシュタム
誤解は、対象の実体に基づいていないときに生じる。

śabda-jñāna-anupātī vastu-śūnyo vikalpaḥ ||9||
シャブダ ジュニャーナ アヌパーティー バストゥ シューンニョー ヴィカルパハ
実体がなく言葉の上だけの知識は、想像上の理解、錯覚である。

abhāva-pratyaya-ālambanā tamo-vṛttir-nidra ||10||
アバーヴァ プラティヤヤーラムバナー タモーヴルッティール ニドゥラ
「何もない」という印象に同化し、タマス(鈍い重い質)を帯びた心の作用が、睡眠である。

anu-bhūta-viṣaya-asaṁpramoṣaḥ smṛtiḥ ||11||
アヌ ブータ ヴィシャヤーサンプラモーシャフ スムルティヒ
過去に経験した対象が心に印象を残したままになっているのが、記憶である。

abhyāsa-vairāgya-ābhyāṁ tan-nirodhaḥ ||12||
アビヤーサ ヴァイラーギャービャーム タンニローダハ
修習、離欲は共に、これが止滅する助けとなる。

tatra sthitau yatno-'bhyāsaḥ ||13||
タットラ スティタウ ヤトゥノービヤーサハ
これにおいて、絶え間ない不断の努力が修習(アビヤーサ)である。

sa tu dīrghakāla nairantarya satkāra-ādara-āsevito dṛḍhabhūmiḥ ||14||
サトゥ ディールガカーラ ナイランタルヤ サットカーラーダラーセーヴィトー ドルダブーミヒ
修習は、長期間継続して真剣に実習し続けると、堅固な基礎となる。

dṛṣṭa-anuśravika-viṣaya-vitṛṣṇasya vaśīkāra-saṁjṇā vairāgyam ||15||
ドルシュターヌシュラヴィカ ヴィシャヤ ヴィトルシュナッシィヤ ヴァシィーカーラ サムジュナー ヴァイラーギャム
見たり聞いたりする対象に欲求をいだかず、意識して心の平静を保つことが離欲(ヴァイラーギャ)である。


tatparaṁ puruṣa-khyāteḥ guṇa-vaitṛṣṇyam ||16||
タットパラム プルシャ キャーテーフ グナ ヴァイトルシュンニャム
至高の状態はプルシャ(真我)の顕現であり、そのとき、グナは渇きの無い状態になる。

 ※グナ: サトワ(純質)、ラジャス(活動・激しさの質)、タマス(覆い隠す質)の3つの変化作用の質。


vitarka-vicāra-ānanda-asmitā-rupa-anugamāt-saṁprajñātaḥ ||17||
ヴィタルカ ヴィチャーラーナンダ アスミタールーパーヌガマーッ サムプラジュニャータハ
具体的な物質を対象として心を集中する行、見えない微細な感覚対象に集中する行、さらに精妙な至福(歓喜)を観想する行、至福からも離れただ「私であること」を観想する行がある。心に想いの種子が、何か伴なわれている。

<参考>
心の焦点が具体的な対象の上に定まったときに生じるサヴィタルカ・サマーディ。
タンマートラ(微細な感覚対象)に集中して生じるサヴィチャーラ・サマーディ。
さらに精妙な至福(歓喜)を観想する、サアーナンダ・サマーディ。
至福からも離れただ「私であること」を観想する、サアスミター・サマーディ。
これらの4つは、サンプラジュニャータ・サマーディ(有想三昧)と呼ばれている。


virāma-pratyaya-abhyāsa-pūrvaḥ saṁskāra-śeṣo-'nyaḥ ||18||
ヴィラーマ プラティャヤービヤーサ プールヴァッ サムスカーラ シェーショーニャハ
想いの種子からも離れるように修習を続けていくと、過去のサンスカーラ(未顕現の印象の種子)も無害化され、別の違った状態となる。

<参考>
この状態は、アサンプラジュニャータ・サマーディ(無想三昧)と呼ばれている。

bhava-pratyayo videha-prakṛti-layānam ||19||
バヴァ プラティャヨー ヴィデーハ プラクルティ ラヤーナム
想いの種子が無害化されないまま肉体を離れた高徳の魂は、その徳質のまま再び輪廻転生する。プラクリティ(根本原質・源)にとけ込んで。

śraddhā-vīrya-smṛti samādhi-prajñā-pūrvaka itareṣām ||20||
シュラッダー ヴィールヤ スムルティ サマーディ プラジュニャー プールヴァカ イタレーシャーム
全面的な信頼、有徳の勇気、神性の記憶、サマーディ(光明との結合)によって、先に述べた別の状態はやってくる。

※別の状態とは、アサンプラジュニャータ・サマーディ(無想三昧)のこと。

tīvra-saṁvegānām-āsannaḥ ||21||
ティーヴラ サムヴェーガーナーム アーサンナハ
集中して修練すると、目的地は近い。

mṛdu-madhya-adhimātratvāt-tato'pi viśeṣaḥ ||22||
ムルドゥ マデヒャ アディマートラトヴァッ タトーピ ヴィシェーシャハ
軽い修練、中程度の修練、集中した修練なのかによっても、違った結果がやってくる。


īśvara-praṇidhānād-vā ||23||
イーシュワラ プラニダーナードヴァー
イーシュワラ(自在神、至高意識)へ、全てを委ねて献身することも、道の一つである。

kleśa karma vipāka-āśayaiḥ-aparāmṛṣṭaḥ puruṣa-viśeṣa īśvaraḥ ||24||
クレーシャ カルマ ヴィパーカ アーシャヤイ アパラームリシュタフ プルシャ ヴィシェーシャ イーシュワラハ
欲求し、行為をなし、行為の結果がやってきて、さらにその印象が次の行為の種子になるわけだが、このようなものから永遠に解放されている至高のプルシャ(真我)が、イーシュワラである。

tatra niratiśayaṁ sarvajña-bījam ||25||
タットラ ニラティシャヤム サルヴァジュニャー ビージャム
そこはこの上ない無上の境地であり、全ての源、「全知」の種子だ。

sa eṣa pūrveṣām-api-guruḥ kālena-anavacchedāt ||26||
サ エ-シャ プールヴェーシャーム アピ グルッ カレーナーナヴァチェーダートゥ
太古のグルたちにとってもグルであり、時間の拘束を受けていない。

tasya vācakaḥ praṇavaḥ ||27||
タスィャ ヴァーチャカフ プラナヴァハ
その存在をコトバに表わすと、それはオームという原初のゆらぎである。

taj-japaḥ tad-artha-bhāvanam ||28||
タッジャパハ タッド アルタ バーヴァナム
そのオームのジャパ(反復誦唱)は、その目的地(イーシュワラ)への黙想となる。


tataḥ pratyak-cetana-adhigamo-'py-antarāya-abhavaś-ca ||29||
タタッ プラティヤク チェータナーディガモー アピャンタラーヤ アバヴァシュ チャ
これにより、内なる意識が自ら気づきをもたらし、そして障害はなくなっていく。

vyādhi styāna saṁśaya pramāda-ālasya-avirati bhrāntidarśana-alabdha-bhūmikatva-anavasthitatvāni citta-vikṣepāḥ te antarāyāḥ ||30||
ヴャーディ ステャーナ サムシャヤ プラマーダーラスィヤ アヴィラティ ブラーンティダルシャナ アラブダ ブーミカットヴァ アナヴァスティタットヴァーニ チッタ ヴィクシェーパッ テー アンタラーヤハ
病気、無気力、疑念、不注意、怠惰、抑制心の欠如、妄想にとらわれた見方、進歩したレベルから後退すること、情緒の不安定さは、心の清さを失わせ、これの障害になる。

duḥkha-daurmanasya-aṅgamejayatva-śvāsapraśvāsāḥ vikṣepa sahabhuvaḥ ||31||
ドゥッカ ダウルマナスィャ アンガメージャヤットヴァ シュヴァーサプラシュヴァーサーッ ヴィクシェーパ サハブヴァハ
悩み、憂鬱、身体の震え、呼吸の乱れは、気が散漫になっている兆しである。

tat-pratiṣedha-artham-eka-tattva-abhyāsaḥ ||32||
タット プラティシェーダ アールタム エーカ タットヴァ アビヤーサハ
それらを避けて目的地に至るには、一つのやり方で、修練を深く掘り下げ続けることだ。

maitrī karuṇā mudito-pekṣāṇāṁ-sukha-duḥkha puṇya-apuṇya-viṣayāṇāṁ bhāvanātaḥ citta-prasādanam ||33||
マイトリー カルナー ムディトー ペークシャーナーム スッカ ドゥッカ プンニャ アプンニャ ヴィシャヤーナーム バーヴァナータッ チッタ プラサーダナム
慈愛、憐れみ(慈悲心)、喜び、手放しをもって、幸福な人、不幸な人、徳のある人、不徳の人に対処する姿勢を育くめば、心は何にも乱されない平静さを保つ。

pracchardana-vidhāraṇa-ābhyāṁ vā prāṇasya ||34||
プラッチャルダナ ヴィダーラナ アービヤーム ヴァー プラーナスィヤ
吐息および保息の両方に注目し、プラーナを整えることも、心の平静さを保つ。

viṣayavatī vā pravṛtti-rutpannā manasaḥ sthiti nibandhinī ||35||
ヴィシャヤヴァティー ヴァー プラヴルッティ ルトパンナー マナサフ スティティ ニバンディニ
精妙な感覚的体験(霊妙な体験等)に集中することも、想念波動を安定した状態に保つ。

viśokā vā jyotiṣmatī ||36||
ヴィショーカー ヴァー ジョーティシュマティー
あるいは、至福に満ちた無上の「内なる光」に集中することによって。

vītarāga viṣayam vā cittam ||37||
ヴィータラーガ ヴィシャヤム ヴァー チッタム
あるいは、執着から解放されている聖者の心に集中することによって。

svapna-nidrā jñāna-ālambanam vā ||38||
スヴァプナ ニドラー ジュニャーナ アーラムバナム ヴァー
あるいは、夢や睡眠の中で得た体験知を想い出し集中することによって。

yathā-abhimata-dhyānād-vā ||39||
ヤター アビマタ ディヤーナードヴァー
あるいは、惹きつけられ、かつ精神を高めるようなものに瞑想することによって。

paramāṇu parama-mahattva-anto-'sya vaśīkāraḥ ||40||
パラマーヌ パラマ マハットヴァ アントースィヤ ヴァシィーカーラハ
根源的な微小原子から巨大な全宇宙に至るまでに、これの習熟度は拡大していく。

kṣīṇa-vṛtter-abhijātasy-eva maṇer-grahītṛ-grahaṇa-grāhyeṣu tatstha-tadañjanatā samāpattiḥ ||41||
クシィーナ ヴルッテーラビジャータスィ エーヴァ マネール グラヒートル グラハナ グラーヒェーシュ タットスタ タダンジャナター サマーパッティヒ
外向きの心の作用が静まると、心は水晶のような透明な映し鏡になり、知る主体ー知る過程ー知られる対象は、そこにあるものをそのまま映し出し(3つが等しいものになる)、サマーディ(光明との結合)が起こる。

tatra śabdārtha-jñāna-vikalpaiḥ saṁkīrṇā savitarkā samāpattiḥ ||42||
タットラ シャブダールタ ジュニャーナ ヴィカルパイッ サムキールナー サヴィタルカー サマーパッティヒ
物質的な何かに集中して瞑想を行じるとき、言葉とその対象物およびその知識が別々にやってくるときのサマーディ(光明)は、サヴィタルカ・サマーディ(有尋三昧)である。

smṛti-pariśuddhau svarūpa-śūnyeva-arthamātra-nirbhāsā nirvitarkā ||43||
スムルティ パリシュッダウ スヴァルーパ シューンニェーヴァールタマートラ ニルバーサー ニルヴィタルカー
物質的な何かに集中して瞑想を行じるときで、心に刻まれた過去の印象が浄化され心が空であると、知られる対象だけがただ輝き現れる。このサマーディ(光明)は、(知る主体と知る過程を経ずに知がやってくる)ニルヴィタルカ・サマーディ(無尋三昧)である。

※過去の印象による反応(思考)を伴わずに生じるサマーディ(光明)。

etayaiva savicārā nirvicārā ca sūkṣma-viṣaya vyākhyātā ||44||
エータヤイヴァ サヴィチャーラー ニルヴィチャーラー チャ スークシュマ ヴィシャヤ ヴィヤーキャーター
同様にして、精妙な感覚対象に集中して瞑想を行じるときに起こるサマーディ(光明)は、サヴィチャーラ・サマーディ(有伺三昧)とニルヴィチャーラ・サマーディ(無伺三昧)である。

sūkṣma-viṣayatvam-ca-aliṇga paryavasānam ||45||
スークシュマ ヴィシャヤットヴァム チャ アリンガ パルヤヴァサーナム
精妙な要素の性質を対象として行じる瞑想は、やがて最も精妙で未分化な状態の根源力プラクリティにも到達する。

tā eva sabījas-samādhiḥ ||46||
ター エーヴァ サビージャス サマーディヒ
以上のものは、種子あるサマーディ(光明)である。

nirvicāra-vaiśāradye-'dhyātma-prasādaḥ ||47||
ニルヴィチャーラ ヴァイシャーラディエー ディヤートマ プラサーダハ
ニルヴィチャーラ・サマーディがさらに純粋になると、至高の自己が永遠に輝き出す。


ṛtaṁbharā tatra prajñā ||48||
ルタンバラー タットラ プラジュニャー
その状態においては、リタンバラー・プラジュニャー(絶対的真理の英知)が直接やってくる。

śruta-anumāna-prajñā-abhyām-anya-viṣayā viśeṣa-arthatvāt ||49||
シュルターヌマーナ プラジュニャービヤーム アンニャ ヴィシャヤー ヴィシェーシャ アルタットヴァーッ
この状態に達すると、口伝や推論、聖典から学んだ知識とは異なる、それを超えた絶対的真理の英知が直接やってくる。


tajjas-saṁskāro-'nya-saṁskāra pratibandhī ||50||
タッジャ サムスカーローンニャ サムスカーラ プラティバンディー
このサマーディ(光明との結合)状態において生じる印象は、他の潜在する印象をすべて消し去る。


tasyāpi nirodhe sarva-nirodhān-nirbījaḥ samādhiḥ ||51||
タッスィヤーピ ニローデー サルヴァ ニローダーン ニルビージャッ サマーディヒ
この微かな印象さえも止み、全てが止滅すると(知る主体もなく知られる対象もない)、完全に因果から解放された、種子無きニルビージャ・サマーディ(無種子三昧)の状態となる。



以上が、パタンジャリのヨーガ・スートラ、第1章サマーディ・パーダである。
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「この世とマインド」

2012-03-18 Sun : 真我の探求

「BABAJI - The Divine Himalayan Yogi」より引用。


(著者 Swami Satyeswarananda Giri)


非常にわかりやすく簡潔に「この世とマインド」とは何であるかを語っている、聖者ババジの質疑応答を紹介したい。



The World and the Mind
  この世とマインド


(註)マハ・アヴァター・ババジ(Maha Avatar Babaji、伝承では203年11月30日生)とは、ヒマラヤで隠棲している不老不死の聖者。

マハは「偉大な」、アヴァターは「神の化身」、ババジは「聖父」を意味する。

ババジは、『あるヨギの自叙伝』の著者、パラマハンサ・ヨガナンダの師匠スリ・ユクテスワ、そのまた師匠ラヒリ・マハサヤのグルである。

彼の姿を見た人の話では、若々しく、肌は健康的な褐色、髪は赤褐色の長髪で、その体は常に金色のオーラに包まれているという。




Q)この世とは、何でしょうか?



MB)この世とは、「ウチなる音:オーム、アーメン、アーミンなど」と、「その音が置き換えられたもの」以外の何ものでもない。



この世は、5つの感覚器官に対応する「対象物」で構成されている。感覚器官の5つの感覚を通して感じ取る 『感覚刺激』をあなたのマインドが認識し、あなたはこの世を見るのである。

このようであるとき、この世はマインド以外の一体何によって構成され得ると言えるだろうか。



この世は、相対的である。認識するマインドにとって、相対的なのだ。


この世を眺めていると、例えば人は、その人が正しいと感じた思いや考えを、それがどれほど真実であるかを他者に証明しようとして、根拠を探りロジックを展開している。しかし、うまくいかないことが多いだろう。なぜなら、まずその考えを思考する自分自身を正しく知らないからだ。




自分自身(知る者)についての真実を知らない探求者にとって、相対界に生じた「ある対象物」に関する理解が、一体どうやって真実であり得ようか?



あなたが、自分(主体)の背後にある真実を完全に知るとき、無知、部分的な知識、理解そのもの(錯覚にとらわれた、これら3つの状態)は、自動的にやむことだろう。そのときにのみ、あなたは完全に、絶対的な知識または真実に確立されうる。



Q)我々の前に、この世が最初に現れたのはいつですか?



MB)あなたが眠りから覚めたとき、真我の光である一筋の光が現れ、そしてその光は、宇宙意思(または宇宙知能)を通り抜ける。



(参考)
  「我は世の光である。」ヨハネによる福音書9:5


その光は、エゴに降りる。そして光はエゴに反射し投影されていく。(訳者註:例えて言うと、エゴがプリズムのような働きをして、透明な光は屈折され、様々な色が表現される。)
 

投影された光(エゴを通過した光)であるが故に、個別の肉体やこの世が現れ(色づく)、そして肉体やこの世は、マインドの様々な作用によって知覚されるのである。


あなたのマインドがこのエゴを通過した光で照らされると、そのマインドはこの世を認識する。そして結果として、あなたはこの世を見るのである。あなたのマインドがこのエゴを通過した光に照らされていないときは、マインドはこの世を認識しない。


実はあなたは、自身のウチなる真我を忘れることによって、この世の対象物を見ているのである。

あなたが五感覚からも退き、真我(サマーディの状態)に深くとどまるとき、この物質世界をあなたは見ることはできないだろう。事実はその通りである。


Q)この世は、本物ですか?



MB)もしあなたが、マインドが存在するかどうかについて本気で探求するならば、マインドは存在しないことを見出すだろう。それは、単に根拠のない説に過ぎない。


もしあなたが、「このマインドとは何か」を知りたいと本気で探求するならば、マインドは思考のかたまり以外の何ものでもないことを見出すだろう。そして思考は、エゴなくして存在することができない。エゴとは、ほとんどの人の非常に親しい友人ではあるが。

 


しかし、もしエゴ氏がどこから来るのかをあなたが知ろうと探求するならば、すると、それ以外の思考は簡単に消えていくことに気づくだろう。なぜなら、思考とは、マインドによって想像されたものだからだ。


したがって、マインド、思考、エゴは、全て根拠のないものであることがわかる。

つまり、実体がないのだ。

あなたが、それらを本当に存在していると受け取めているだけで、自分で自分自身をトラブルに巻き込んでしまっているのである。この世はマインドの投影であり、マインドは実体がないとすると、この世はどうやって実在であり得ようか?



Q)例を挙げて、説明していただけますか?



MB)例えば、映画のスクリーン上で、ある人物が世の中全体の動きを見ているとしよう。

映画上で、この人物が主体であり世の中が客体であるが、スクリーンの背後にあるリアリティ(実在)、つまり本当の主体(知る者)と客体(対象)を識別することが、この人物にできようか。

幻影の人物が幻影の世の中を見ていることが、非常によくわかることだろう。「あなたとこの世の中」とは、正に「映画に登場した人物と世の中」と実質的には同じである。



Q)この世とマインドは、相対的なものであり、また、この世はマインドの投影で、かつこの世とマインドは同義的であるとおっしゃっていますが、これについてコメントしていただけますか?



MB)この世は幻影(マーヤ)であり、また、外側に表現された外観あるいは多様性の表現でしかないので、この世について話すことは有益ではない。


この世とマインドは同じものの別な表現でしかなく、現れては消える。しかし、そのうちの客観的世界(この世)がどのように表現されるかは、単独でそのマインドに依存する。


全く動きのない(現れることもなく消えることもない)、唯一無限なる純粋意識においては、それら二つは分けることができず、現れては消えていく現象に過ぎない。ここでいう純粋意識とは、究極の真我のことである。



Q)人は、どのように真我を実現するでしょうか?



MB)「マインドとは何か」と本気で探求し続けるならば、そのとき自動的に、この世またはマインドから離れるだろう。またその探求をしている間は、思考が消えていることに、あなたは気づくだろう。

最終的に、あなた自身のマインドの背後にある、内側深くに存在する「何か」を、あなたは見出す。

それは、真我の純粋な意識である。



Q)マインドと真我の関係性とは、何でしょうか?



MB)探求において、あなたは、マインドが独立して存在していないというリアリティ(実体)に気づくだろう。

真我は、マインドがなくても存在する。マインドは、真我がなければ存在し得ない。あなたのマインドがそうであるので、あなたにとってのこの世も同様で、真我なく存在し得ないものなのである。




エゴと知性(Intellect)




Q)エゴとは、何ですか?



MB)エゴとは、マインドの別の名前である。



Q)それは、エゴも実在ではないという意味ですか?



MB)その通りだ。例えば、あなたは寝ているとしよう。そのとき、不完全であり無知であるという感覚はない。それと同じように、エゴそれ自体が、不完全であり無知なのである。



Q)エゴの主な特徴は、何でしょうか?



MB)エゴとは、ゴーストのようなもの。独立して存在しないものである。



Q)エゴは、どのように生じるのですか?



MB)エゴは、真我の純粋な意識と物理的な身体の間で生じ、それらの間で活動している。



Q)エゴの真実の姿は、どのようなものでしょうか?



MB)思考が、エゴの対象物だ。エゴは、思考に付着している。例えば、芋虫は決して今掴んでいる葉を次の葉を掴むまで離さないが、これに似ている。

 

エゴは、同じように思考から思考へと移動している。もしあなたが、思考と思考の隙間(瞬間)において、エゴを見つけようとエゴを観察し続けることができれば、あなたは、エゴの真実の姿を理解することができるだろう。

 


驚くに十分であるが、あなたはエゴが非実在であることに気づくだろう。そして、その思考と思考の隙間において無思考であるとき、あなたは、真我の真実の姿を悟るであろう。


この世は、エゴに基づいている。思考と思考の隙間において、あなたがもしエゴは非実在であると気づけば、この世も実は非実在であることに気づくだろう。

 

それと同時に、真我の真実の姿を悟るとき、あなたは究極の真我の純粋な意識の内に、自身を見出す。そしてそれに合わせて、「この世」の代わりに、「純粋意識」をどこにも見ることだろう。




Q)知性(ブッディ)とは、何でしょうか?



MB)知性とは、マインドの別の名前である。実に、マインド(マナス/意志)、エゴ(アハンカーラ/自我意識)、知性(ブッディ)は、「内的心理器官(アンタカラナ)」に対する別の用語である。


(訳注:内的心理器官は、通常4つあるとされる。マナス(意志)、ブッディ(知性)、アハンカーラ(自我意識)、チッタ(ハート))



Q)では、知性も不完全なものであるということですか?



MB)そうだ。人々は通常、「私の知性では」等という。つまり、知性は彼らに帰属しているということだ。そのような個人に帰属する知性は、本来の理知ではない。

しかし、知性は、真我なく存在し得ないものだ。


真我は、不変の実在である。一方、知性は、単に一つの事象である。

例えていえば、夢の中で、知性が寝ているとするならば、夢は自然に起こった現象に過ぎないと見なされる。これと同様である。


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統一のスートラ(言霊)

2012-03-18 Sun : 存在のバイブレーション(内なる音)
「存在」あるいは「至福のアイの泉」とも表現できるだろうか。ここから湧き上がって、あふれるようにバイブレーションがやってくる。このバイブレーションを「言葉に表現してごらん」と、目に見えない存在が後ろから後押しする。
そして表現されたものが、ここで紹介する「存在のバイブレーション(内なる音)」である。


統一のスートラ(言霊)

我は「それ」なり。
絶対純粋のブラフマンなり。

内なる無限の至福は、常なるサイワイなりて、消えゆくことなし。
無拘束の絶対なる自由を歓び、
広大無辺な宇宙と共に ダイナミックに流れゆく生を歓ぶ。
内に、聖なる炎が燃え上がり、
至福の甘露、したたれり。

ああ、止めどなくあふれくる、アイの泉よ。
あふれる純なるバイブが、心にさざ波 伝えくる。
絶対の秩序と調和に支えられ、愛の想いが湧きあがる。

目的なく、一切の成果を求めず、
ただ、今ここ 今ここ、この一瞬にほとばしりゆく。


あらゆる全ての存在の深底に在りゆく、「ム」。
根源なる源、究極なる一点、宙心の中心。
完全なる、十全なる静寂 無音 静止。
これを肌で知り 腹で知りたる者、まさに「統一」ありゆきたる。


「我が身は、中空の竹。私は何もしていない。」
まさに、源よりの風が吹き抜けてゆくのみ。

「私」とは、ただ観る者。
想いのプロセスを展開するのは、カミ。
手足を動かすのは、外側の宮(衣)。
すなわち、「私」は行動に従事せず。

我は「それ」なり。
絶対純粋のブラフマンなり。

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愛の賛歌

2012-03-18 Sun : 存在のバイブレーション(内なる音)
マハ・シヴァラートリの日に、平和の祈祷を捧げた。そのとき受け取ったバイブレーションをコトバに表現したものだ。


愛の賛歌

神々は 集い来たれり。
  ともに歓び 祝祭となれり。
まさに至高の至福、法悦の至りにひたりたる。

神々は ウタ ウ。
ありがたきかな、麗しきヒトよ。
汝のヒトを愛する想い、まさに純なる祈りとなりて、全宇宙に響きゆく。
ああ、ありがたき最大の供げ物は、汝の歓喜なりて、
これこそが、吾が歓喜の歓喜。尊き 献げものなり。
吾、汝とともに味わおう。惜しみなく尽くす愛を。

吾こそは、絶えずに祝福を降りそそぎゆく。
愛しみ、厳しみ、慈愛となり、慈悲となる。
絶対なる秩序と調和を強めゆく。

まさにありがたき歓喜は、吾が顕現となりし
              ヒトの神髄のホトバシリなり。

マコト麗しき吾が子よ。
  汝ありてこそ、源の純なる『アイ』は この世の愛の花となる。

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聖仙アガスティヤと聖仙ヴァシシュタ

2012-04-17 Tue : インドの聖者
北インドのガルワール地方、ガンジス川上流にルドラプラヤグという町がある。ガンジス川は、ガンガー女神の顕れであるといわれ、リシケシから川の上流に向かって、5つの大きな合流(プラヤグ)がある。
デオプラヤグ、ルドラプラヤグ、カルナプラヤグ、ナンダプラヤグ、ヴィシュヌプラヤグの5つ。

シヴァ神に縁のあるルドラプラヤグは、アラクナンダ川とマンダキニ川の合流地点である。ルドラプラヤグから車で1時間位の所に、聖者アガスティヤ・ムニが数年滞在していたといわれる町があり、町の名前もアガスタムニという。ここにはAgasteshwar Mahadev Templeがある。
またリシケシから車で1時間位の所に、聖仙ヴァシシュタの洞窟がある。

ヴェーダによると、太古の昔、愛と調和の神である「ミトラ神」と水天(海の神)である「ヴァルナ神」が、美少女ウルヴァシーの愛を得るために争い、ミトラ神は壺の中に、ヴァルナ神は海の中に、それぞれ自分の精子を落としたという。

壺の中からはヴェーダ時代の偉大な7聖仙「アガスティヤ」が生まれ、海からは同じく偉大な7聖仙とされる「ヴァシシュタ」が生まれたという。

聖仙アガスティヤ
・紀元前3000年頃といわれているが、アガスティヤは、最も名高いインドの聖人の一人として知られている。
150cm位の小さな体でありながら、野蛮な敵を打ち負かす戦士であり、狩や弓の名手としても知られる。古代ヘラクレスのように無類の酒飲みの大食漢でもあったという。

・ローパームドラー(Lopamudrai)という妻、姉妹が一人、サガレン(Sagaren)という名の息子がいたという。ローパームドラーは、アガスティヤに献身的な愛を示したといわれ、アガスティヤは修行と家庭生活の双方を両立させたことでも知られる。

・シヴァとパールヴァティーがカイラス山で結婚したとき、あまりにも大勢の神々がヒマラヤに集まったために、地球のバランスが崩れたという言い伝えが南部タミル地方に残っている。
シヴァ神は、地球のバランスを回復させるために、アガスティヤにヒマラヤから南インドに行くことを命じたという。

・医学、カーヤカルパ、タミル文法、ヨーガ等に業績を残す。
グル=シヴァ神。
弟子=ボーガナタル、ババジ、ティルヴァッルヴァル、マッチャムニ。

(参考書籍:『ババジと18人のシッダ』(有)ネオデルフィ発行 等)

聖仙ヴァシシュタ
・叙情詩「マハーバーラタ」にも登場する聖仙。その名は、最も富める者の意。

・望むことを全て叶える聖なる牡牛ナンディンの所有者。
マハーバーラタには、この聖牛を欲しがるヴァス神の妻にほだされ牛を盗んだヴァス神8神を、ヴァシシュタは呪詛し「神でありながら人間の腹から生まれるであろう。」という呪いをかけ、それは実現された。

※行いを悔いているヴァス神たちの呪詛が軽減されるよう、ガンガー女神の慈悲により、ガンガー女神が人間の姿になり、この8神の子供たちを生んだという。
(詳しくは、叙情詩「マハーバーラタ」を読んでみましょう。)


北インドへ旅行される方は、ぜひ一度訪れてみてはいかがだろうか。
その聖者と縁の場所において、心が静まり無心になると、そのバイブレーションに同調するかもしれない。
Blessing 祝福がやってくるかもしれない…。

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聖仙ヴィヤーサ

2012-05-15 Tue : インドの聖者
聖仙ヴィヤーサ Vyasa

 『原典訳マハーバーラタ』上村勝彦訳/ちくま学芸文庫には、以下のような記述がある。
「聖仙クリシュナ・ドゥヴァイパーヤナ(ヴィヤーサ)は、カーリー(サティヤヴァティー)*1が処女のままで、ヤムナー川の洲において、シャクティの息子パラ-シャラ*2との間に生んだものであり、パーンダヴァ兄弟*3の祖父である。彼は生まれるやいなや、その意思により急速に体を成長させた。この誉れ高い人は、ヴェーダ聖典とその補助学と叙事詩(イーティハーサ)とを修得した。
 何人も、苦行、ヴェーダの学習、誓戒、断食、子孫、祭祀にかけて彼を凌駕することはなかった。最高のヴェーダ学者である彼は、一つのヴェーダを四つに配分(ヴィヤス)した。(だからヴィヤーサと呼ばれる。)彼は高きもの低きものを知る梵仙であり、カヴィ(聖者・詩人)であり、誓いを守り、清浄であった。高名であり福徳の誉れ高い彼は、シャンタヌの家系を維持するため、パーンドゥとドリタラーシトラとヴィドゥラを生んだ。」
(第1巻 第54章2節~6節)

*1 ブラフマンの呪詛により魚となってヤムナー川に住んでいた天女アドリカーと、王仙ウパリチャラ王の間に生まれた男女の双子のうちの女児。
*2 偉大な聖仙
*3 パーンドゥ王の5人の息子たち。戯曲や映画作品として脚色されたマハーバーラタでは、中心的な英雄だ。ユディシティラ(ダルマ神より授かる)、ビーマセーナ(ヴァーユ神より授かる)、アルジュナ(インドラ神より授かる)、ナクラ、サハデーヴァ(アシュヴィン双神より授かった双子)の5人の英雄。


 叙事詩「マハーバーラタ」は、聖仙ヴィヤーサが作ったものであると伝えられる。成立年代は定かではないが、一般に紀元前400年頃から紀元後400年頃に現在の形を整えていったと推定されているそうだ。
 まず副次的な物語を含まない24000詩節の「バーラタ本集(サムヒター)」が作られ、それから聖仙はさらに、150詩節の要約を作ったという。全体では、18巻10万詩節(実際には約75000詩節)。主筋は、偉大なバーラタ族の物語であるが、その主筋の間に、たくさんの神話(例えば、宇宙開闢の神話など)、説話、物語、論説や、「バガヴァッド・ギーター」のような哲学的経典も挿入されている、偉大な超大作である。

 聖仙ヴィヤーサは、純粋性が少しずつ失われ乱れていくその時代性に気づいて、あるいは「トキ」の要請を直観したがゆえに、一つであったヴェーダを四つに分割した。さらに第五のヴェーダとして、古典のヴェーダを知らずとも「マハーバーラタ」を読めばヴェーダのエッセンスがわかるようにと、偉業を成し遂げてくださった。

『気づいた者を通して、自発的に、コトは起こる』のが、自然界の法則。
まさに、これらの偉業も、世の人々への大きな祝福なのだろう。

 また、次のような伝説もある。
「マハーバーラタ」に記述されているが、「ヴィヤーサは、ガネーシャにこの文章を筆記するのを手助けして欲しいと頼んだ。しかしガネーシャは、ヴィヤーサが中断することなく朗誦するならばという条件を出した。ヴィヤーサはそれならばと、ガネーシャは書き写す前に詩節を理解していなければならないという相殺条件を出した。」という。

 このようにして、ヴェーダ・ヴィヤーサは、マハーバーラタの全て、ウパニシャッド、18のプラーナを朗誦し、ガネーシャ神は自分の牙を折ってペン代わりにして、それを書き写したという。
 インド・ヒマラヤの聖地バドリナート(約3000m位)の近郊には、ヴィヤーサがマハーバーラタを朗誦したといわれる「ヴィヤーサの洞窟」とそこから10分程離れたところに「ガネーシャ洞窟」がある。約5000年の歴史があるそうで、神聖なヴァイブレーションが漂う場所だという。


『原典訳マハーバーラタ』上村勝彦訳を読んだとき、非常に惹きつけられるように一気に読んでいた。ちょうど、岡本天明氏がお筆取りしてくださった『日月神示』や出口ふで氏がお筆取りしてくださった『由来記』を読んだときと、非常に似た感覚であった。

 日本でもインドでも、古代においては、神と人は交わりながらこの世を構成していた時代があったという記録でもあるのかもしれない…。
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ヴィヤーサの洞窟

2012-06-16 Sat : 聖地巡礼
ヴィヤーサの洞窟

ヴェーダ・ヴィヤーサとして知られる偉大な聖者が、マハーバーラタを朗唱するために過ごしたといわれる洞窟が、バドリナートの近くにある。

北インド・ヒマラヤの聖地バドリナートは、毎年5月から10月位まで訪れることが可能であるが、冬期は雪のため閉ざされてしまう。太陽神ナラヤン(ヴィシュヌ神の化身)が祀られているバドリナート・テンプルが町の中心だ。ヴィシュヌ神が座って瞑想している座像は、ここだけだという。

マータ・ムルティを母とし、Vasundhara Fallsのダーラムを父として生まれたといわれる兄弟神、ナラとナラヤン。
バドリナートの谷は、両側にそびえるナラ峰とナラヤン峰に守護されていた。

5月6月は、インド人の学校休暇時期であるため、一生に一度という思いから、たくさんのインド人巡礼者が訪れる。そして、必ずといっていいほど彼らが訪れるのが、バドリナートの町から3kmのマナ村にある、ガネーシャの洞窟、ヴィヤーサの洞窟、サラスワティ川の源流、ビームパル(マハーバーラタに登場する怪力のビーマセーナが川を渡るために大岩を橋代わりに架けたとと言われている)だ。大変急な登り坂なので、登れない人は背負子のようなカンディというもので、運んでもらっていた。

洞窟に入ると、一人のスワミがこの洞窟をまもり、参拝者にダルシャンを与えていた。
偉大な聖者ヴィヤーサは、今も訪れた人々に、誰に対しても、祝福を与え続けていた。
最初は、洞窟の中で瞑想していたが、じゃまになるようなので、一旦出て洞窟のそばで瞑想を続けた。

洞窟の上部が大岩になっており、黄色い旗が立っている。
この大岩に、偉大な聖者ヴィヤーサのバイブレーションが観じられた。
祝福に心から感謝し、黄金の光の姿で顕れてくださった偉大なの聖者の恩恵をありがたく頂いた。
合掌
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ヴァスンダラの滝

2012-07-17 Tue : 聖地巡礼
vasundhara falls 1  vasundhara falls 2  vasundhara falls 3


Vasundhara Falls (ヴァスンダラ・フォール)

北インド・バドリナートの寺院から約8kmのところに、神秘的で自然の芸術ともいえる「ヴァスンダラ・フォール」がある。
ヒマラヤの山々の雪や氷河が溶け出して、巨大な岩から約145m下の氷河に向かって流れ落ち、アラクナンダ川に融けこむ壮大な滝だ。

アラクナンダ川の谷の東側にあるこの滝は、常に強風が吹く場所に位置している。因って、滝は風の力でその時々の美しいパノラマ風景を醸し出す。

水がスパイラル状に旋回しながら落ちてくる情景を、風によって拡大して見せてくれたり、霧のように拡がりながら太陽の光を浴びて虹のような色彩を見せてくれたりする、不思議な滝である。

途中で行き会ったインドの年配女性が次のように教えてくれた。「ヴァスンダラ・フォールは、ブラフマンの恩寵により、’ヴェーダの音’として表現されたと言われています。4つのウパニシャッドにそのように書かれているのです。」


滝の近くでは、チャウカムバ峰、サトパンタ峰、バルクン峰といったヒマラヤの山々や、アルカプーリ氷河を身近に見ることができる。

合掌
_a./u\.m_
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音の価値

2012-08-18 Sat : 真我の探求
サンスクリット語とヤマトの音霊・言霊

普段使っている話し言葉とは別の次元に、原初音(pranava プラナヴァ)といわれる音がある。
例えば、om オームがそれだ。原初音とはうなりのような音なので、オームと表現されたり、アーメンと表現されたりしている。
シンギングボールの奏でる響きや倍音も、この原初音のうなりの表現だといえよう。
脳波にアルファ波が増えることや癒しに効果があることが、一般にも認知され始めてきている。

サンスクリット語は、言語としての意味も持っているが、意味がわからなくても一音一音が価値を持っているので、現象界にその音の価値が発現するといわれている。

一方、ヤマトの音霊・言霊も、同じように一音一音が価値を持っているので、現象界にその価値を発現させることができる言語だ。例えば、「ありがとう」という言霊を水にかけると、水の結晶が美しく変化することはよく知られている事例だ。

インド・リシケシで、ある賢者にご縁があったので、
「日本の言語もサンスクリット語と同じように音の価値を持っています。また、オームと同じように、意味はなく音の価値だけの音の羅列があります。プラナヴァのような音です。ちょっと聴いてみてください。」と言って、ヒフミ祝詞を聴いてもらった。

すると、「まるでオームのような音ですね。一つ一つの音において、より完成されているように観じられました。あなたのチャンティング自体も、素晴らしかったです。」と。

意味無きその音の価値を感じ取ってくださった、素晴らしい賢者だった。

『発音が完全であれば、その現れもまた完全となる.』
したがって、どちらも完全な発音を持って心底から唱えると、現象を作り出す力を秘めている言語であるといえよう。
自らを調え、サイレンスに立脚して唱えてみよう。

_a./u\.m_
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真理は、どこからやってくるか。

2012-09-19 Wed : 真我の探求
絶対の「真理」。ジュニャーナ。

これは、どこからやってくるのか。

源のサイレンス。
これ以外にはあり得ない。

自分の外側に求めても、他者に求めても、そこには見つけられない。
なぜなら、外側には無いからだ。
ヒントになるものは、あるかもしれない。

自分ができる努力とは、サイレンスに浸れるように、あらゆる心と体の緊張を解放することぐらいだろう。
「ヨーガ・スートラ」を著してくださったパタンジャリは、自分に合ったどんな方法でも良いと言っている。

アシュターンガ・ヨーガという8つのヨーガの手法もある。
アーユルヴェーダの浄化法であるパンチャカルマや薬草を用いる方法、
内なる神・イーシュワラに集中する方法、
または、自分が得たことのある神秘的なヴィジョンや体験に集中する方法、等々でもよいと。

大切なのは一つの方法で、深く掘り下げ続けることだと。
存在の源へ向かうことだと。

一瞬、一瞬、自分を細かく観察する…。
体の微細な感覚、
雲のように湧き上がっては行ってしまう思考、
心の動き、
さらにはその観察者を…。


自分ができる努力は、最後の一歩手前までだ。
最後の一歩は、『絶対なる存在』の恩寵によって 起こる。
神聖なる内なるグルに、存在に、ひれ伏すことによってしか 起こらない。

自らの内なる「光輝き」の扉が全開になり、
一人一人が、世を照らす光輝く存在になられることを、心からお祈りしております。

_a./u\.m_




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インドと日本に保持されているエネルギー

2012-10-11 Thu : 真我の探求
インドの聖地、リシケシ

聖地といわれるリシケシで、聖なる女神ガンガー(ガンジス川)の川辺で瞑想する…。
すると、大地のエネルギーが、深く中心へと向かうエネルギーをサポートしてくれるような、そんなエネルギーを観じる。

The land of veda といわれるインドの大地で、太古から保持されているエネルギーだ。

日本は、The land of rising sun といわれている。
日本で太古から保持されているエネルギーだ。
あるインドのマハリシは、次のようにおっしゃっていた。
「新しくものを始めるときには、日本から始めなさい。その方が早く世界中に広がります。」

朝日のエネルギーとは、ハジマリであり、かつ広がり浸透しゆくエネルギーである。

広がるエネルギーは遠心力であり、中心に向かうエネルギーは求心力である。

遠心力と求心力。陰と陽。
どちらも、欠けてはならない創造エネルギー。
二つで一つ(全体)。
一つがふたつ。
一つである根源エネルギーの、別なアラワレ。違った姿形。

この世のものは、必ずハジマリがあり、そしてオワリがある。
出会いがあり、そして別れがあるがごとく。
現れて、そして消えるがごとく。

すべては、
rising and setting,
rising and setting,
rising and setting .....


相対世界の二元性は、変化し続ける…。

変化しないものは、何か。
不変の至福へと向かう道は、奥が深い。

内なるサイレンス。
ここに全ての答えがある…。
言葉にならない、全知が存在する。

_a./u\.m_



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プラーナーヤーマ

2012-11-08 Thu : 真我の探求
プラーナーヤーマは、プラーナという根源的なエネルギー(Vital air)をコントロールする一つの手法である。
全ての物質も、プラーナが元になってできていると言われている。
あるいは、この世の全てを存在させている根源的な動的エネルギーということもできるかもしれない。

吸う、保息、吐く、保息。
簡単に言うと、この繰り返しの仕方をどのように行うかによって、様々な修習方法となっているようだ。

Sidda(シッダ)の伝統によると、「プラーナーヤーマは内なるアグニホートラである」という。
アグニホートラとは、サンスクリットで、火を用いた祈祷のことである。
アグニは、火の神でもある。

サンスクリットのマントラ・チャンティングを繰り返し朗誦していると、プラーナーヤーマの修習をやっているときと、同じような状態が自然にやってくることが多々ある。

例えば、自然に内側にギュウッと引き込まれるような保息状態で、しばらくの間止まっている…。


プラーナーヤーマも、マントラ・チャンティングも、内なるアグニホートラであると実感する。

内なる聖なる浄化の火(アグニ)が、不純を焼き尽くしてくれる、奥が深い手法であると観じられる。

人体は小宇宙であるので、深くどこまでも探求することができる。
行きつく先は、どこか。

人から聞いた答えは、参考にしかならない。
実際に自分で体験してみる。これ以外に真実に至る道はない。

_a./u\.m_
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ヒマラヤ聖者、マハーアヴァター・ババジ

2012-12-11 Tue : インドの聖者
「あるヨギの自叙伝」パラマハンサ・ヨガナンダ著に、ラヒリ・マハサヤが1861年33歳の時、マハーアヴァター・ババジに初めて出会ったときの話が書かれている。

マハーアヴァター・ババジは、Devine Himalayan Yogiとして、今も多くの人を惹きつけ、求める者には祝福と導きを、今も与え続けてくださる偉大な聖者だ。

ラヒリ・マハサヤは、ヒマラヤ山麓のRanikhetに転勤になり、仕事がまだ始まっていなかったので、壮大なヒマラヤの山々を歩き回っていたとき、遠くから自分の名前を呼ぶ声を聞き、ドローナギリ山(Dronagiri/Doonagiri)の頂を目指して登っていったという。

「やがて私は、両側に転々と洞窟の並んでいる小さな空き地にたどり着いた。見ると、岩棚の上に一人の若い男が立っていて、ほほえみながら私を迎えるように手を差し伸べてる。…」 本より引用

ラヒリ・マハサヤと前世でもグルであったババジが再会を果たしたこの洞窟には、ヨガナンダがアメリカ・カリフォルニア州に設立した公益法人Yogoda Satsanga Society of India(Self Realization Fellowship)の名前とCave of Mahaavatar Babajiと書かれ、現在でも誰でもここで瞑想することができるようなっていた。
ありがたい大いなる祝福である。


「近くにマハーアヴァター・ババジの洞窟があるので、明日そこに行きなさい。非常に良いバイブレーションの洞窟なので、好きなだけそこで瞑想してきなさい。」

不思議な導きにより泊めていただいた、あるアシュラムのババジが、このように勧めてくださった。
(天国のような山頂の開けた場所にたたずむアシュラムで、3ヶ月前にグルジがマハーサマーディによりここで肉体を離れたばかりだった。)
ババジの洞窟を訪れてみたいと思っていたが、どこにあるのかわからず諦めていただけに、びっくりした。
大いなるババジ3人(マハ-アヴァター・ババジ、アシュラムのグルジ、ババジ)の祝福と導きに心から感謝し、言われた言葉に従って、その洞窟へ行って好きなだけ瞑想することにした。

Silence.... 
静寂のバイブレーションとでもいうのだろうか。
聖音が ただ静かに満ちている…。
スバラシイ場であった。

朝、洞窟にはまだ日が差し込んでいなかったのに、戻るときは洞窟の中は明るく日の光で暖かくなっていた。
アシュラムへの帰り道、大きな野生のイーグルが3羽、悠々と空を飛んでいた。


Doonagiri周辺の谷のヒマラヤの山々の頂を、夜12時過ぎに見つめていると、神々や聖者たちの聖なるチャンティングが聴こえてくるかもしれないという。

聖なるバイブレーション。
内なる音(ナーダ)が、この谷の山々を満たすのだという。


ああ、祝福よ。祝福よ。祝福よ。
この世の全てに幸あれ。

aum sweet aum
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ジョーティル・リンガ in Jageshwar

2013-01-11 Fri : 聖地巡礼
インド・ヒマラヤKumaon(クマオン)地方、ドゥナギリ・ヒルから車で東方向に4ー5時間の所に、
Jageshwar(ジャゲシュワール)という古い町がある。標高1870m。
ババジの見えざる手に導かれて、この町にやってきた。

ヒマラヤスギの深い森の中に入ると、
まるで時間が止まったような空間が広がっていた。
この地は、聖牛(牡牛と雌牛)の名前がついたナンディニ川とスラビ川の流れが、
聖なる場所で合流しているという。
何かを象徴しているのだろう。

ジャタガンガ川沿いに、さらに奥へ進む。
森の奥には、大小125の石寺の群落が静かにたたずんでいた。

このジャゲシュワールの石寺群の中に、ナゲシュワラ・ジョーティルリンガが祀られている。
インドでは、ジョーティル・リンガは64あるとされ、そのうち12が非常に吉兆なものとされている。
リンガとは、リンガムとも表現され、シヴァ神の象徴であり、
始めなく終わりなく、宇宙創造の源泉を象徴するものとして信仰されている。
ここは、最初にリンガが現れた場所だと信じられている。

祭官曰く、
「通常のリンガムは一つの突起の形をしているが、
ここのリンガムは非常に珍しく、先端が二つに分かれている。
これは、シヴァ神とパールヴァティ女神の合一を象徴している、希なリンガムである。」と。

また、そこには akhanda jyoti(アカンダ・ジョーティ)、
いわゆる「不滅の火」がずっと古い時代から灯されて続けていた。
英語では、Non Stop Fire と言っていた。

昔この「不滅の火」が、ヒマラヤの聖地ケダルナートの寺院
(ここにも12ジョーティル・リンガの一つがある)に分けられていったのだそうだ。

ここでジョーティル・リンガに祈祷をあげたいと願い出ると、快く承知してくれた。
ただし、他の参拝者の邪魔にならないように、本堂の少し外側で。
ありがたいことである。

参拝者が来る度、鐘を鳴らし大声で祈祷があげられている中で、内側に集中し、
小1時間ほど、静寂の中で祈祷を完遂した。
外側の騒がしさは何も気にならなかった。

シヴァ神とパールヴァティ女神。
シヴァとシャクティー。
男性エネルギーと女性エネルギー。
中心に向かうエネルギーと拡大するエネルギー。
陽のエネルギーと陰のエネルギー。

宇宙創造の大切な2つのエネルギーとも、表現できる。

この二つは、融合する。一つになる。
aum という聖なる流れの中に融けこんで。

om namah sivaya.
aum sweet aum.
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プラナヴァ(聖音)

2013-02-12 Tue : 真我の探求
Pranava プラナヴァとは。

プラナヴァとは、聖なる音、聖なるヴァイブレーション。
aum と表現されたり、オーム、アーメンと表現されたりする。

ヒトは、本来、存在の顕れである。
ヒューマンという形をもつ『存在』だ。
だから、だれの内にも、秘めたる神性が在る。

この内なる神性に還る方法は、聖なる音の流れに没入し、自我が消え去ったときに完成するという。

ヨーガの修習を進めていくと、自然にaumの音がきこえてくるようになると言われている。

スワミ・シュリ・ユクテスワという聖者は、マハアバター・ババジの指示により、貴重な本「The Holy Science」(セルフリアライゼーション・フェローッシップ発行)を著してくださり、その本に以下の文章がある。

Aum is heard through caltivation of Shraddha (heart's natural love), Virya (moral courage), Smriti (memory of one's divinity), and Samadhi (true concentration).

(訳)
シュラッダー(全面的な信頼、すなわちチッタに元々備わる慈愛)、ヴィールヤ(有徳の勇気)、スムリティ(神性の記憶)、サマーディ(真の集中)を育むことによって、aumは聴こえてくる。


慈悲・慈愛は、ヒトの本性だ。
本来ある愛を育み、徳を行う勇気を育て、内なる神性の記憶を取り戻し、真の集中であるサマーディ、つまり光明と結合することこそ、真の自己実現だ。


トラブルを取り除き、疑いを一掃し、心の平安を授けてくれる人は、貴方のグルである。
貴方の周りにいるすべての人が、受け止め方次第で、グルになり得る。

反対に、疑いや困難を増すような人は避けた方が、貴方にとって有益だろう。


すべての人の心が、愛と平安で満たされんことを、心から祈ります。
_a./u\.m_
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『救い』とは何か。

2013-03-15 Fri : 真我の探求
「救い」とは何か。
人は、なぜ「救われたい。」と思うのか。

一時的な救いではなく、「救われた」とはどんな状態を指すのか。


人が生まれ落ちて来たその源は、絶対的真理であり、普遍意識(愛)であり、至福そのもの。
変わらない、分かれていない、ヒトツ。
sat chit ananda.

ゆえに、人には、この根源への求めが基本的に備わっている。

真理を知りたい、得たい…。
普遍的な愛を知りたい、得たい…。
至福を体験したい、体現したい…。

貴方は、どれほど強く求めているだろうか。

「求めよ。さらば与えられん。」
救い主イエスの言葉である。

強い渇望があればあるほど、探求は進む。
喉から手が出るほどの渇きがあれば…。


これらの求めが成就したとき、人は完全に「救われた」存在だ。
完全な自由。完全な解放。
存在の顕れであるところの、本来のヒトの姿。
Kaivalya.


さればこそ、祝福は降りそそぐ。
求める貴方に。

_a./u\.m_
合掌






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聖地リシケシにて

2013-04-15 Mon : 聖地巡礼
リシケシは、ヨーガの聖地として名高い。
たくさんのアシュラムがあり、ヨーガ修行者がたくさん滞在している。
また、インド国内のたくさんの巡礼者も訪れる町だ。

リシケシは、以前ビートルズが、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギのアシュラムに滞在していたことでも有名だ。

このアシュラム跡地は、現在ナショナル・パークが管理してるという。
野生の象が出没するため、危険なので正式には見学することはできないように、入り口には鍵がかかっている。
しかし西洋人の瞑想者たちは、平気で横の方から塀を乗り越えて、中を見学して撮影をしたりしていた。


ガンジス河の水は、聖水だ。
ガンジスの聖水は、ウイルス等が繁殖しないといわれている。科学的にも実証されているという。


不思議なことに、ガンジスの傍らで瞑想していると、すぐ深い没我の状態になる。
リシケシの大地のエネルギーが、中心に向かって、つまり意識の大海の底に向かって、引っぱってくれているからだろうか。
だから、サイレンスに入りやすい環境だといえるかもしれない…。

少ない努力で、内側に集中していられる環境があるといえよう。
偉大なるシヴァ神の計らいなのかもしれない。

ぜひ一度は訪れて、体験してみてはいかがだろうか。

合掌
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本当の自分とは何か

2013-05-16 Thu : 真我の探求
「本当の自分」とは、何か。

ヨーガ哲学では、アートマンとか、真我などと表現されている。
自己の本質、大我などという表現もある。

「本当の自分」は、実は5つの鞘(コーシャ)で覆われているという。
創造された精妙な順では、
アーナンダ・マーヤ・コーシャ(至福というマーヤの鞘)
ヴィジュニャーナ・マーヤ・コーシャ(知性(ブッディ)というマーヤの鞘)
マノマーヤ・コーシャ(マナス(マインド)というマーヤの鞘)
プラーナ・マーヤ・コーシャ(プラーナというマーヤの鞘)=(微細な物質でできた体)
アンナ・マーヤ・コーシャ(食物というマーヤの鞘)=肉体(粗雑な物質でできた体)

チッタ(心)は、アートマンを一番内側で被い、アハンカーラ(エゴ)が皮のようにチッタを覆っているという。

マーヤとは、幻影とか闇を意味する言葉だ。
常に変化するもの、それ自身が実在ではないもの。
真我の光があってはじめて存在するもの。

変化しないアートマンが、変化するマーヤの鞘に被われて、ヒトという存在が出来上がっているというわけだ。


変化しない、不変の実在。
その神性は、sat, cit, ananda とも表現されている。

マーヤの世界において、サット(真理)に向かう引力は、サットヴァ(調和的な質)だ。
チット(普遍の愛)から生まれたからこそ、純粋なチッタ(心)がヒトには備わっている。
アーナンダ(至福)を具体的に経験する場として、この世(マーヤ)は創造されたとしか想えない。

ヒトによって、普遍の愛が、ありありとした愛の形に創造されるように…。
ヒトは、愛されて生まれてきた。これに、疑いはない…。


祝福よ、祝福よ、祝福よ。
om namah sivaya



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真我を被うもの

2013-06-16 Sun : 真我の探求
真我は、5つの鞘(コーシャ)に被われ、3つの体をまとう

真我は、チッタ(心)の中心に座している。
真我を最初に包んでいる最も精妙な体は、原因体、コーザル・ボディ(カーラナ・シャリーラ、またはリンガ・シャリーラ)と呼ばれる。
心臓にある小さな空間に位置するといわれている。

5つのコーシャの内、アーマンダ・マヤ・コーシャ(至福鞘)と重なる。

原因体から生命の光を受け取り、知識エネルギーと活動エネルギーの情報をやりとりしている次なる体は、微細体、サトル・ボディ(スークシュマ・シャリーラ)といわれる。
ブッディ(理知)、マナス(マインド)、5つの微細感覚器官、5つの微細行動器官、5つの微細元素または感覚対象(タンマートラ)、
以上の17の実在原理から構成されている体だ。
脳のブラフマランドラといわれる空間に位置するといわれている。

ヴィジュニャーナ・マヤ・コーシャ(理知鞘)、マノマヤ・コーシャ(マナス鞘)が重なる。
マナスとは、感覚器官や行動器官を制御している司令塔という言い方もできよう。
意思力と、呼んでもよいだろう。

3つ目の体は、物質でできた体だ。
微細体から送られてくる力や刺激によって、肉体の動きは引き起こされている。
微細な物質でできたプラーナ・マヤ・コーシャ(プラーナ鞘)と、粗雑な物質でできたアンナ・マヤ・コーシャ(食物鞘・肉体)から成り立っている。


真我の生命の光は、全ての体に浸透していっている。
 どの瞬間も、休むことなく…。

生命ある実在は、真我だけであるにもかかわらず、
全てをイノチあるもののように活動させている。

大いなる実在に、宇宙原理に生かされている。
このイノチ…。

「私は誰か」を知る旅は、このイノチの源に行きつく。
ああ、 om tat sat.
祝福よ、祝福よ、祝福よ。

(合掌)

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真我を被うもの(2)

2013-08-01 Thu : 真我の探求
真我を被うものとは。

原因体(アーナンダ・マヤ鞘)、微細体(理知マヤ鞘とマナス・マヤ鞘)、肉体(プラーナ・マヤ鞘と食物マヤ鞘)があることを書いた。

それぞれの体(鞘)は、次元が違う。
物質次元の被いは、粗雑な物質元素でできている体と、
微細物質、即ちプラーナという生命電気エネルギーでできている体だ。
気の流れと表現されるものとほぼ同じであり、丹田と密接に関係している。

日本人は、丹田を鍛えることを大事にしてきた民族だ。
プラーナ(気)に熟達した方々が多いことからも、うかがい知ることができる。
例えば、日本の伝統的な生活スタイルは、腰椎4番と5番を強めるような床に座る生活だった。
武士も、腹ができていた。

微細体は、物質次元ではない。
日本では、霊体とか観念体という言い方をしているものが、これに近いだろうか。

休みなく活動しているので、その働きは、知ることができる。
5感覚器官からやってきた情報をマナスが受け取り、理知(ブッディ)が即座に判断し、マナスは理知の判断を受け取ったら、それをまた末端の5感覚器官へ伝達し、該当する行動器官が行動するというように。。。

マナスは、訳すのが難しい。英語ではマインドと訳されているが…。
あえて言うなら、『意志』だろうか。

本来は、5感覚器官を束ねて制御するメカニズムだ。
感覚司令塔の役目を持ち、また偉大な力を備えている。
念力(マインド・パワー)は、マナスの力の一部といえるだろう。

ヨーガでは、馬車に繋がれている5頭の馬(5感覚器官)を制御する「手綱」に例えられている。
「手綱」を握る御者の役目は、理知(ブッディ)であり、この馬車(肉体)に乗っているのが、真我(アートマン)というふうに。
感覚の対象は、道に例えられ、歩きにくい道もあれば、トゲ等もあるので、馬(感覚器官)は時として荒れる場合もあるのであろう。
好き嫌いや快不快に振り回されるとは、単に馬(感覚器官)に翻弄されているだけなのである。

「私は誰か」。 
これを思い出すと、鎮まることだろう。

感覚器官を制御することは、大変有益である。
なぜなら、微細体や原因体を浄化するのに、役に立つから。

原因体の構成要素であるチッタ(心)には、今世持ってきたカルマ(良いカルマ・悪いカルマとも)、現世で生じた善悪のカルマ、それから様々な経験によって生じた残存印象(心に残った未消化な印象)なるものが記憶されている。
これらが、未来の行動を条件付けする原因となっている。
なので、これらの条件づけを解消するような行為は、
本当の自由を求める探求者には、大変有益なのである。

深い瞑想に入って、観じ取ってみてほしい。

原因体は、微細体よりももっと精妙な次元だ。
しかし、これがなかったら、生命あるものにはなり得ない。
日本では、魂という呼び方をしたりする。
アートマンを魂と呼ぶ場合もあるようだが。


生命そのものである真我の表現が、順を追って展開されたすべての「カラダ」だ。
「カラダ」を通して、真我は具体的な表現を持つ。

なんと素晴らしい仕組みではないか。
人を通じて、源の愛は、具体的な友愛に表現されるのだから。

祝福は、常に降りそそがれている。

om nama sivaya
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自分のルーツ

2013-09-01 Sun : 真我の探求
自分のルーツ

霊体とか、知性体といわれたり、魂という言われ方をしている、
個別性を持った、個々の宇宙知性が在る。

魂の役目を持っていたり、生まれ変わりを経験する本体である。

物質でできた肉体から抜け出すとき、鼻から吸った最後の一息によって、
原因体は微細体と合体して出て行くのだという。

すなわち、生まれ変わるときは、今まで使っていたマナス(マインド)や微細な感覚器官、
ブッディ(理性)、アハンカーラ(自我)、チッタ(心)もそのまま持って生まれてくる。

チッタには、過去生のカルマや残存印象(サンスカーラ)などが記憶として記録されているので、
これらは機が熟したときに、本人の経験としてやってくる。

良いカルマも、悪いカルマも、
その宇宙知性が、進化成長するための
貴重な機会を提供してくれるものである。
すなわち、必要、必然、最善なのである。


高徳の魂や、高い知性を達成していた宇宙知性は、
磨かれたマナスやブッディ、アハンカーラ、チッタを持っているので、
その状態を維持して再び生まれてくる。

なぜなら、人として生まれてくる最終ゴールは、真我との合一であるから。

魂の成熟度により、今世に最終ゴールできるのか、
はたまた、未来の生で達成されるのか、
種々色々であろう。

良い悪いはない。

自分が今世持ってきた「想い」を実現することが、その人の進化成長を助けるのだから。

全ての人が、自己を成就することができますようにと、
心からお祈りしております。

合掌






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カルマの見抜き方

2013-11-02 Sat : 真我の探求
カルマを見抜く。 
過去のすべての行為は、善い行為・悪い行為も「因」となって、いつか必ず、その行為者に「果報」としてやって来る。 
この因果の種子は、チッタ(心)に記憶されており、機の熟した時に、発芽して実を結ぶといわれている。

 カルマは、3種あるという。 
プラーラブダ・カルマ:今世持ってきたカルマ。 
アーガミー・カルマ:現世で生み出しているカルマ。 
サンチタ・カルマ:カルマの大袋の中で、未だ眠ったままのカルマ(種子の状態)。 

 何かのアクション(他からやってきた刺激)に対して、ほぼ自動的にリアクションをしている自分に気づくことはないだろうか。
理由なく拒否反応が現れたり、イライラが現れたり、許せないと感じたり、
どうしても嫌悪感や不快を感じたり…。 
あるいは、「どうしてもこうしたい。」という選択肢以外を思い浮かべることができなかったり…。

それによって、トラブルに巻き込まれたりしてるときは、カルマを解消するチャンスがやってきたと喜びを持って捉え、
「その原因は何か」を掘り下げるのが、最善だ。 

過去に自分が経験した、何かの感情(怒り、悲しみ、寂しさ、特定の喜び等)の印象が、根強く心に刻まれて残っていることが原因である場合が多い。
見たくないものかもしれないが、しっかり根本原因まで掘り下げよう。
すると、その気づきによって、カルマは解消される。

つまり、自分がつくった「条件付け」、「束縛」から解放される。
より自由になれる。
自分が条件付けた呪縛を、一つ一つはがし、
もっと自由になろう。

あらゆる条件付けが外れると、
常に、他者の『喜びを増す人』に、
『幸福を増す人』になれる。 

歓びを持って、このような選択を自らする人。
本当の自由人である。

善い行為は、良いカルマを創る。
善いカルマの縦糸に沿って、神々の祝福や恩寵はやってくる。

今、ここ、この瞬間。
自分の手の内にあるのは、これだけだ。

過去のカルマを解消するのも、今。
未来の善き種を蒔くのも、今。
(光明を得たら、サンチタ・カルマでさえ、聖なる火に焼かれて発芽しなくなる。)

だから、今に集中する。
今に集中して、今を創る。
未来は、自分次第だ。
「創造する意思」は、自分からスタートする。 

祝福よ、祝福よ、祝福よ。
om namah shivaya.
合掌






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プラーナ・マヤ・コーシャの持つ力

2013-12-02 Mon : 真我の探求
プラーナ・マヤ・コーシャ

真我(プルシャ)は、5つの鞘に被われている。

1番目は、至福の鞘。
2番目は、ブッディ(理性・理知)の鞘。
3番目は、マナス(意思)の鞘。
4番目は、プラーナ(気)でできた鞘。
5番目は、食物でできた鞘。

プラーナーヤーマ(プラーナをコントロールする呼吸法)や気功法、武道などの達人は、プラーナ・マヤ・コーシャが、特に活性している。

日本でも、滝行や火渡り行などの荒行を成し遂げたり、
気合いで相手を倒したり、
正月の冷たい海で寒中水泳を平然とできたり…。

インドにも、火に焼かれても無傷のヨーギがいたり、
様々な荒行や苦行などがある。

どんなメカニズムによって可能になるのか、はなはだ不思議であった。
だが、実際に滝行を体験したことによって、その一端を実感できた。


神道式の滝行では、禊行の一つとして滝に打たれる。
祝詞を唱え、大きな声で神の名を呼び、神様を招き入れ、
無心になって全てを神にゆだね、呼吸を調え、
気合いをぎゅっと入れて、冷たい滝に打たれる。

この一連の行を、指導されるままに素直に行じてみた。
すると、何の困難もなく、10mの滝の水圧も冷たさも感じることなく、
滝行を遂行できていた。

「行」であるので、神を招き入れ、神に明け渡し、強い気合いを入れる。
その結果、まるで光のシールドが張られて、護られていたようだった。


なるほど。
あのとき、マナス(意思)の指令の下に、ブッディ(理知)が正しい判断を行い、
プラーナ・マーヤ・コーシャは最高の状態にまで活性されて、
光のシールドとなって、外の刺激から保護していたのかと。

ショック療法のように、火事場の底力が発揮されたお陰で、
体が弱かった故に、今までどうしても体得できなかったことが、体得できた。
なんとありがたいことか。
いただきし 神の恩寵 あればこそ…。

いつでも自在に発揮できるようになるには、訓練は必須であるが。


ヒトには、未知なる力が秘められている。

om namah sivaya






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絶対なる「存在」への讃歌

2014-02-01 Sat : 存在のバイブレーション(内なる音)
『存在』への讃歌

愛しのマハーデーヴァよ。
この宇宙を創造せし、創造主よ。
絶対の真我の具現者よ。

我 歓びにあふれて その御前にぬかずき 全てを捧げる。

根源なる真中心に 鎮座なさるお方。
無限の光輝きとなって この宇宙を創造せしお方。
慈悲深く慈愛に満ちて 宇宙法則を司るお方。

不法を打ち砕き 不浄を聖なる炎で焼き尽くすお方。
全ての魂を救ってくださるお方。

霊的進化成長を求める者に パーフェクトな導きをもたらしてくださるお方。
どの瞬間も離れることなく 助け支え続けてくださるお方。

あらゆる「疑い」を打ち砕き 「信」に変容してくださったお方。
この世は「愛する」から生まれたことを 実感させてくださったお方。
神に愛されて「ひと」は生まれたことを 知らしめてくださったお方。

ああ、愛しいお方よ。
その御名をなんとお呼びしましょう。
偉大なシヴァ神とお呼びしてよいでしょうか。

このボディは、今や全て貴方のものです。
この一息一息も 貴方のものです。
全ては 貴方のものです。
「ひと」を創りしお方よ。

全く空になったとき、「知」が直接やって来ることを知る。

全ては『それ』なり。
『それ』は 「ひとつ(ワンネス)」。
分かれていない。変化しない。

ここから 生まれてきたんだ。
だから 私もあなたも 「ひとつ(ワンネス)」の現れなんだ。

「私」は「あなた」だ。「あなた」は「私」だ。
「私」と「あなた」という分け隔てが 消えていく…。

全ては 『それ』だった。


あらゆる生類の中で 「ひと」という存在は、こんなにも祝福されたものなのか。
麗しき「ひと」の存在よ。真我の顕れよ。

永遠のトキを生きる マハーデーヴァよ。
....『それ』は sat(真理)なり。

om tat sat.







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満月の日のブッダガヤ

2014-03-04 Tue : 聖地巡礼
ブッダガヤのマハボーティー・テンプル

ちょうど満月の日にブッダガヤを訪れ、マハボーティー・テンプルに参拝した。
ゴータマ・シッダー・ルタ、釈迦牟尼は、5月(または6月)の満月の日に生まれ、悟りを開き、涅槃に入られたといわれている。(チベット歴では4月の満月)

2013年12月満月の日、夕方にマハボーティー・テンプルを訪れたとき、寺院はたくさんの花や装飾品で飾られ、たくさんの国籍の仏教徒たちがお参りに来て、祝祭を祝っていた。

メインテンプルに参拝し、金色の仏像に触れ、蓮の花を捧げ、お祈りする者。
お経を唱えながら、メインテンプルの周りをずっと回り続ける者。
黙想しながら、同じように歩いて回る者。
菩提樹の近くで瞑想する者、お経を唱え続ける者。

遠くからやってきたグループの指導者が、生徒たちに教えを説いていたり、
多数の出家者が集団でお経を唱え修行に励んでいたり、
五体投地をひたすら続ける者たちも…。

それぞれがそれぞれのスタイルで、仏陀に帰依している信仰を表現し、
悟りへの道を少しでも深めようと真剣に修行していた。


仏陀は出家後6年間厳しい修行をして、もうこれ以上できることがない位の苦行を続け、断食でやせ細り体力も衰えきっていたそうだ。
もう何もできることがない…。こんな境地にまで追い込まれた。
そして、何かが「落ちた…」。
その翌日、ただ(無の境地で)菩提樹の下で瞑想しているとき、光明を得たといわれている。
偉大なる覚者、ブッダよ。


太陽が西の空に沈んだ後、満月が東の空に大きく昇った。
暗くなっても、幾重にも重なるお経の響きはやむことはなかった。

菩提樹のそばで、瞑想に入った。
澄み渡る静寂。平ら…。清らか…。
精妙なコスミック・エナジーが満ちていた。


翌朝も、日の出の時刻頃に参拝した。
清らかなエネルギーに満ちる、マハボーティー・テンプル。

こんなに神聖なバイブレーションに満ちている聖地は、そんなに多くはない。
なんと素晴らしいことか。

この地に満月の日に来るように導いてくださった、内なるグルの偉大さよ。
om namah shivaya.



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ジャイナ教の聖地、サンメッド・シカール

2014-05-14 Wed : 聖地巡礼
ジャイナ教の聖地、サンメッド・シカールジ

ジャールカンド州、パラシュナート駅の近くに、
八つの峰が連なるサンメッド・シカールジ(パラシュナート・ヒル)と呼ばれるジャイナ教の聖地がある。
ガヤ駅の近郊だ。ブッダガヤには車で3-4時間位。
ジャイナ教徒にとっては、最も神聖な聖地の一つであり、
敬称を表す“ジ”をつけて、サンメッド・シカールジと呼ばれている。

ジャイナ教には、24人のティールタンカラと呼ばれる大師たちがいる。
目覚めた意識で、マハーサマーディ(魂の意思で肉体を脱ぎ捨て、ニルヴァーナを達成する)を達成した人たちだ。
だから、勝者を表すジナとも呼ばれている。

この24人のティールタンカラのうち20人が、このサンメッド・シカールジでマハーサマーディを達成している。
それぞれが、ある特別な神の意志(この世における必要)を感じ取ったからこそ、そのような特別な上昇気流を創り出す経験を、同じ場所で重ねてきてくださったとしか思えなかった。

一人のティールタンカラがマハーサマーディを達成するとき、多くは1000人の牟尼たちを伴い、またあるときは7000人の牟尼たちを伴って、ニルヴァーナを達成したと記録されている。


1代目のティールタンカラは、チベットのカイラス山でニルヴァーナを達成したそうだ。
24代目のティールタンカラであり、ジャイナ教の開祖といわれているマハヴィーラ(釈迦牟尼と同じBC500年頃の人物)は、別の場所だった。
6代目のパドマプラボー(蓮の光という意味)というティールタンカラは、女性だった。


八つの峰には、24人のジナたちと特に貢献のあったスワミ(僧侶)たちの聖なる足跡が、一つずつ祀られている。
巡礼者たちは、Jai Jinendra(ジナたちの祝福あれ)と声を掛け合いながら、麓のマドゥバンから31kmの巡礼路を回る。
通常は暑いので、巡礼に適した冬期に、夜中の3時頃出発して、1日で巡礼を完了させる人が多いそうだ。
籠に乗って、巡礼する者もいる。

山頂にはダラムシャラといわれる巡礼宿もあるが、滞在許可証を得た者しか泊まることができない。
政府の管理下に置かれている巡礼地であり、許可証をもらいに朝まず事務所へ向かうようにと、ホテルの人に言われた。

ジャイナ教徒は、特に不殺生(アヒムサー)と不所有を徹底して行うことでも知られている。
例えば、菜食も徹底していて、根菜類はその植物の命を奪うことになるので食べない。葉物や果菜類はよい。
日没後は、暗くて気づかずに小さな生物を殺さないように、料理はしない。
さらに徹底する人たちは、歩行中に空気中の小さな生物などを殺すことがないようにと、マスクをしている。

不所有を徹底し、衣類を身につけることも放棄する「空衣派」と、白い衣だけを身につける「白衣派」があるそうだ。

ダラムシャラに滞在し、朝から巡礼路を回ると、約9kmの道のりだった。

ダラムシャラは、大部屋にみんなが並んで寝る。
また食事は11時頃と5時頃の2回、無料で提供される。
ダル豆カレーと別の豆カレー、チャパティー、ご飯。アチャール(辛い薬味的なもの)。
シンプルだが、とても美味しかった。
標高約1350mなので、野菜を荷揚げするのがなかなか困難なのだろう。

同じ部屋に寝泊まりした60歳のジャイナ教徒は、朝5時頃起きて身を清めてから、1回目の巡礼を完了させ、ダラムシャラに帰ってきて食事をし、また2回目の巡礼に出かけていった。
生きているうちに、108回の巡礼を完成させたいんだそうだ。
足腰のしっかりした、元気なおじさんだった。

ダラムシャラへ登るとき、途中9合目位から、急に場の波動が変わったことを体感した。
『清らかで細やかな天界の波動』とでも表現したらいいのだろうか。
ここに巡礼に来ると心と体が浄化されるといわれているそうだが、まさにその通り...。

さらに一つ一つのお堂を回って、聖なる足跡に敬意を込めて礼拝しているときは、上昇気流のような、何かに強く引っ張りあげられるようなエネルギーを観じていた...。

もしかしたら、この聖地に巡礼に来た初めての日本人だったのかもしれない。
許可証を発行してくれた役人が、「一体誰が、あなたにここに来るように言ったのですか?」と尋ねたから。
「The inner Lord Shiva.」と、本当のことを答えた。
これで通じるところが、インドだ!

om namah shivaya
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スリランカの聖地カタラガマ

2014-06-04 Wed : 聖地巡礼
スリランカの南部に、カタラガマという聖地がある。

聖地とは、もともと神聖なエネルギーが満ちている場だ。
だからこそ、そこで人々は祈りをあげる。
また寺院や神社が開かれている。

カタラガマは、チベットのカイラス山と同じ東経81度の直線上に位置する。
ダクシン・カイラーサ(南のカイラス)とも呼ばれている。

ここの主宰神は、シヴァ神の息子であるムルガン神(スカンダ神、カールティケーヤとも呼ばれる)だ。
地元スリランカでは、どんな願いも叶えてくれる強力な神様として、絶大な人気がある。

マハーアバター・ババジが、昔このカタラガマに巡礼に訪れ、
聖者シッダ・ボーガナタルと出会い、深いサマーディに長くとどまれるように教え導かれた場所だという。
例えば、最初は1日、次は数日間、1週間、1ヶ月、1年…、というように。
ババジが、長い間サマーディにとどまる修行をマスターしたのは、この地だった。

シッダ・ボーガナタルは、カタラガマはサハスラーラ・チャクラに呼応する場所だと教えている。
宇宙の中心を象徴するといわれるカイラス山とカタラガマを結ぶ、81度という一直線は、スシュムナ・ラインを象徴するともいわれる。

また「81」という数字は、絶対数である「9」の二乗でもある。

カタラガマ神とも呼ばれる、ムルガン神の神殿には、神像はない。
代わりに、聖なるヤントラがご神体だ。
(普段は幕に被われており、シンハラ暦のエサラ月に行われる夏の大祭の時に、人の目に触れるそうだ。)

シッダ・ボーガナタルを通して表現された、聖なるヤントラ。
ヤントラとは、見るという視覚を使って、五感覚を超越し、サイレンスへ至るためのツールともいえる。
その形態波動は、エネルギーを放っている。

カタラガマのヤントラは、二つの正三角形が逆向きに重なり、真ん中にタミル語のオーム記号が記され、周りは蓮の花のような模様で飾られている。
陰陽エネルギーの融合、またはシヴァとシャクティの結合を、象徴しているともいえるだろうか。

kataragama yantra


スリランカに住むヒンズー教徒(主にタミール人)は、徒歩でカタラガマへの巡礼にやってくるそうだ。
マニック・ガンガ(意味は宝石のガンジス河)で沐浴し、身を清め、そして神殿へ供物を携え、お参りをする。
多くのスリランカ人は仏教徒ではあるが、それでもローカル・ゴッドとして信奉篤く、たくさんの人々が特に満月にかけて、お参りにやってきていた。

巡礼に適するのは、12月の満月からよく5月の満月までだそうだ。
暑さや雨期を避けて。


内なるコエに導かれて、2014年2月にカタラガマを訪れた。
満月の前日夕方、まずは地元の人たちに習って、同じように参拝することにした。
敬意の礼を尽くすために。

参道入り口付近に、たくさんのプージャ(祈祷)の供物を売る店が並んでいる。
スリランカのガイドさんの友人が紹介してくれた店で、シンプルなセットを購入した。
フルーツや花、インセンスなどの一式が、プレートに並べられていて、結構な重さだった。

このプレートを持って、マニック・ガンガの橋を渡り、神殿入り口へ。
供物のプレートを持って18:00のプージャに並ぶ人たちが、列を作り始めていた。
神殿をぐるっと回ってから、この列に一緒に並んだ。

入り口から見て、右側にムルガン神の神殿がある。
この神殿は、プージャの時以外は閉じられている。
左側には、仏陀の仏像が祀られ、仏陀にも祈りが捧げられるようになっていた。

その後ろには、大きな菩提樹が繁っていて、神殿が閉じられているときは、人々はこちらで祈りを捧げていた。
この菩提樹は、とても神聖なバイブレーションを漂わせていた。

プージャ(祈祷)が始まると、すごい熱気が観じられた。
人々は、祈祷がある程度進み、自分の供物を献じて、そのお下がりを返してもらう順番をじっと熱く待つ。
何か御利益を実感してきている経験が、あるからこそなのだろうと観じられた。

ずっと夜中も、太鼓やラッパの音楽が鳴り続けていた。
これは、あるグループが自分で雇った楽隊に演奏させているんだそうだ。
例えば、ずっと一晩中踊り続けて、トランス状態に入ったりするという。
スリランカは、魔法の力が働いている大地のようだ。

翌朝、満月の日に今度は一人でお参りに出かけた。
参道の入り口まで、ガイドさんに送ってもらうとき、野生のクジャクが歩いているのを見た。
クジャクは、ムルガン神の乗り物である。吉兆なサインだ。

神聖な菩提樹に向かって、大地に座し、プージャ(祈り)を行じ、深い瞑想に導かれた。
4時間、動かなくなって、大地に座していた。

このようなことは、神々や聖者の導き(恩寵)なくしては、起こり得ない。
が、日々禊を行じることは、「起こる」を助ける要因の一つかもしれない。
そう。聖地という場の助けを得て、それはあなたにも起こるかもしれない…。

大地に伏して感謝を顕し、ゆっくりと体をもどしていった。

om namah shivaya

シッダ・ボーガナタルは、カタラガマの後、空中を飛んで、南インド(タミール・ナードゥ)のパラーニヒルへ行き、ここに寺を開き、ここでマハーサマーディを遂げたといわれている。
3000年以上も生きたといわれる、偉大な聖者だ。

シッダ・ボーガナタルにならい、自分もカタラガマからパラーニヒルへ向かうことにした。
彼のサマーディのある場所で、感謝の祈りを捧げ瞑想したいと思ったので。

シッダ・ボーガナタルは、シヴァ神との一体を顕現された偉大な聖者といわれている。

om shivaya namah.









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スリランカのもう一つの聖地、スリパーダ

2014-06-22 Sun : 聖地巡礼
スリランカの聖地、スリパーダ(アダムス・ピーク)

スリランカは、太陽のエネルギーと力強い大地のエネルギーが漲っている。
このスリランカに、もう一つ大切な聖地がある。

スリランカ唯一の山岳地帯にある「スリパーダ(聖なる足跡)」、またはアダムス・ピークと呼ばれている山だ。
現地ガイドさん曰く、スリランカにはカタラガマとスリパーダ以上に神聖な、神様の宿る聖地はないという。

スリパーダは、標高2238mの山だ。
(巡礼シーズンは、雨期を避け、12月満月から5月満月まで。)

sri pada

山頂には寺院があり、聖なる足跡が残された岩が祀られている。
仏教徒にとっては仏陀の足跡であり、
ヒンズー教徒にとってはシヴァ神の足跡であり、
イスラム教徒・キリスト教徒にとっては人類の父であるアダムの足跡であり、
どの宗教にとっても、聖なる信仰対象であった。

スリパーダでは、どの宗教の巡礼者も仲良く共存していた。
また、山の神サマン(ローカルな神)に対する信仰も、皆が共有していた。

スリパーダは、実はインドの叙事詩ラーマーヤナやマハーバーラタに出てくる、ランカ島のトリクータ山だとも言われている。
(トリクータとは、3つの峰の意味)
なぜなら、スリ・ランカ島に山岳地帯はこの辺りだけで、またスリパーダを含め、ちょうど3つの峰が重なっているから。

トリクータ山は、十頭の羅刹王ラーヴァナの居城があった場所。
その以前は腹違いの兄である財宝主クベーラ神の居城であった。
その以前は、最初のラクシャサ(水を守護(ラクシャーマ)する者として名付けられたが、後には力を誇って羅刹と化した。)が住処としていたという。

しかし初期のラクシャサ(スマーリンなど)は、苦行によりブラフマ神から強さの特権を与えられて、横暴・無法を働くようになり、神々から助けを求められたヴィシュヌ神が退治を約束する。
ヴィシュヌ神が絶大な力を発揮し一族が滅ぼされていくのを見たラクシャサ(羅刹)たちは、スマーリンを先頭にトリクータ山の都から逃れ地底界へ逃げていったと、ラーマーヤナには記述されている。

ラーマーヤナによると、ラーヴァナの亡き後は、弟であり、ダルマ(法)を守ることに専心するヴィビーシャナが、新たな羅刹王として、トリクータ山の居城で羅刹たちを治めたという。

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(叙事詩ラーマーヤナより(概略))
ラクシャサ(羅刹)の全ては、ヴィシュヌ神を恐れ、トリクータ山の都を放棄し地底界に逃げていった。
プラジャーパティの一人であるプラスティヤ仙の孫、ヴァイシュラヴァナ(クベーラ神)は、幸運をもたらす英知と徳性を備えていた。
ヴァイシュラヴァナは、苦行林において一千年間厳しい大苦行を行った。
その功徳により、祖父神である梵天より贈り物(褒美)を選ぶようにと言われた。
「私は、世界を、世人を保護する力を望みます。」
「わたしは世界の守護神の4番目を求めていたところだ。ヤマ神、インドラ神、ヴァルナ神に次いで、財宝主の地位を取るが良い。」と。
財宝主の地位を得たヴァイシュラヴァナは、父である牟尼の最上者ヴィシュラヴァスに、どこかに住所を見つけてくださいと願う。すると、南の海岸にあるトリクータ山にランカーという都があるのでそこへ行くようにと勧められ、財宝主クベーラ神は、トリクータ山の城に住むようになった。

時をおいて、地底界に逃れていた羅刹スマーリンは、あるとき地上界をくまなく見て歩き、そのとき天車プシュパカに乗って太陽神のように光り輝くクベーラ神を見て、どうすればあのようになれるのかと思案する。
スマーリンは、クベーラ神の父である牟尼ヴィシュラヴァスの所へ、美しい娘のカイカシーを行かせ、子供を得るようにと命じた。
ちょうど牟尼ヴィシュラヴァスがアグニ・ホートラを行じているときに、カイカシーはその側にやってきて、子を得たいという思いを持って、牟尼の足に触れた。
カイカシーはその願望を成就したが、縁起の悪い時間帯であったため、得た子供たちは凶暴で残酷な羅刹となることを告げられる。
カイカシーは「なにとぞお慈悲を。」と懇願し、最後に生まれる息子は、法を愛する者となると知らされる。
1番目の息子は、十の頭を持ち、二十の腕を持つ凶暴な子で、ダシャグリーヴァ(のちに羅刹王ラーヴァナ)と名付けられ、2番目の息子は大力で巨大な体のクンバカルナ、3番目はシュールパナカという羅刹女、4番目の息子はヴィビーシャナで、法を愛する者であった。
ダシャグリーヴァ(のちに羅刹王ラーヴァナ)は、「あなたの兄である財宝主クベーラ神と同じようになるよう努力しなさい。」と母カイカシーにけしかけられる。
こうして、羅刹スマーリンの願いは、ラーヴァナによって成就していったのであった。

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最近でも、UFOが多数目撃されている地域でもある。

スリパーダ巡礼は、月が満ちる吉兆な時に夜間登頂をして、山頂でご来光を見ようと訪れる人が多い。
登山口があるナラタニヤは約700mの標高なので、およそ1600mを登る。
上に行けば行くほど、急な傾斜となり、石の階段をひたすら上っていく。

普通の体力の人で、登り3-4時間位。子供でも6時間位。
参道は、ライトアップされているので、心配ない。
途中、紅茶でも飲んで、休憩しながらのんびり登るのも良い。

夜中の1時に、ナラタニヤのホテルを出発した。
もうすぐ満月になる月が、煌々と闇夜を照らしてくれた。
また山の神サマンが、必要なパワーを与えてくれたと観じられた。

5時頃、頂上まであと10分位の所、開けた場所までやってきた。
ここでご来光を待つことにした。

5:45頃、遮るもののない雲海を赤く染め、朝日が昇った。
寒さの中、何とも形容しがたい、摩訶不思議な日の出の光景を眼にした。

sunrise at sripada


山頂へ着くと、朝6時のプージャの読経が心地よく響いてきた。
パーリ語(お釈迦様の母国語)による読経。
何とも清らかで、やさしい美しい調べであった。

7時頃プージャが終わり、聖なる足跡を拝む列ができていた。
スリパーダへのダルシャンを済ませ、僧侶(または司祭)から眉間に聖灰をつけてもらった。

6時から7時の間、スリランカの人たちは、寒さに震えながらも、立ったまま手を合わせ静かにお経に声を合わせている人が多数だった。

また、朝日が昇りきった頃、ちょうど8時過ぎ位だろうか。
東の空の反対側に、スリパーダの影が映った。
こんな光景は、初めて目にした。
雲海に、山頂部が影絵のように映り、何とも神秘的だった。

reflection on clouds

8:30頃下山を開始し、10:30にはホテルに戻ることができた。

祝福に満ちた、巡礼であった。
om namah shivaya.








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南インドの聖地、パラーニヒル

2014-07-23 Wed : 聖地巡礼
南インドの聖地、パラーニヒル・テンプル

南インドのタミルナードゥに位置する。
伝統的で保守的、また多くの聖者を生み出してきたタミルナードゥ。
チェンナイに次ぐ第二の都市、マドゥライから北西方向に車で3時間位だ。
ムルガン神が祀られる寺院の中では、最も重要視される寺院である。

シッダ・ボーガナタルは、この聖地にやってきて、寺を開き、弟子に必要な祭祀を教え、それを代々息子に継承させるようにと約束させた。
このパラーニヒルが、霊的な高次エネルギーが満ちる場所であったからこそなのだろう。
※シッダとは、ヨーガの完成者とか、シッディといわれる超自然力を得た者の意。

そして、シッダ・ボーガナタルは、ここでマハーサマーディ(自分の意思で肉体を離れる)を遂げられた。

この聖地を訪れた第一の目的は、本を通じて教えを授けてくださったシッダ・ボーガナタルのサマーディ(霊廟)に行ってご挨拶をし、そこで瞑想したいと思ったことだった。

寺院は、パラーニヒル・テンプル(500m位)の頂に建てられている。
参拝するには、石段を登っていくか、ケーブルカーまたはロープウェイを利用する。

朝7時頃、プージャ用のお供え物を購入してから、石段の参道を登っていった。
ガイドブックには、メイン・テンプルに参拝できるのは、ヒンズー教徒だけと記載されていた。

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頂上部は、かなり広い。
そして、どこが入り口なのかよくわからなかったので、案内所のようなところへ行き、
一人の役人に、「パンチャ・アビシェーカム・プージャを受けたいのですが。」と尋ねてみた。

パンチャ・アビシェーカム・プージャとは、この寺院の主宰神であるダンダユダッパニ神の神像に、5つのアムリタを注ぎかける祈祷である。
このダンダユダッパニ神の神像は、シッダ・ボーガナタルが体に良い作用をもたらすように調合した9つの金属の合金でできており、この神像に浴びせかけたお下がりは、霊的な作用を持つと言われていた。

ダンダユダッパニ神は、全てを放棄している姿を象徴して、ふんどし以外は身につけておらず、1本の杖を右手に持っている。

最初、役人は行き方を教えてくれたが、行ってみても結局よくわからなかったので、再び戻ってもう一度教えてくれるように頼んだ。
すると、親切に今度は別の係員を呼んでくれ、案内を頼んでくれた。
まず、パンチャアムリタを購入する必要があった。
そしておかげさまで、本来ならヒンズー教徒以外は入れないメインテンプルに、何の問題もなく通してもらえた。

インド人に混じって、プージャの順番を待つ列に並んだ。
さらにパンチャ・アビシェーカム・プージャをしてもらっているとき、
こっちへいらっしゃいと誘導してくれ、特別に神像に近いところに入れてくれた。
ありがたい。
シッダ・ボーガナタルの恩寵であり、シヴァ神の恩寵であったとしか思えなかった。
シッダ・ボーガナタルは、シヴァ神との合一を果たした聖者であるとも言われているので。

祈祷が終わって、列を離れると、ちょうど正面にボーガナタルのサマーディが見えたので、早速向かった。
中へ入ると、場が静寂に満ちていた。
数人が瞑想していた。
私も即座にリュックを下ろし、瞑想に入った。

何という祝福だっただろう。
ボーガナタルは、遠くからよく来たねとあたたかく歓迎してくださったように観じられた。
エクスタシーに満ちたサイレンスの中で、無言の「教え(ウパデーシャ)」を頂いた。

しばらくしてサマーディ(霊廟)から出ると、ガイドさんから1時間半も経過していたことを知らされた。

夕方、ふとインスピレーションを観じ、もう一度石段を登って寺に参拝すると、人々が何かを待っているように列を作っていた。
聞いてみると、19時にムルガン神が山車に乗ってお出ましになるという。
大変熱狂的な人気を誇る神様であることが、観じられた。
信者たちは、男女ともまるで人気スターを待つファンたちのようだった。

「ムルガン神は、どんな願いも叶えてくれる、すごく強い神様なのよ。」
と、あるインド人の女性が片言の英語で教えてくれた。

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祝福に満ちた巡礼であった。
om namah shivaya

合掌


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(参道の入り口付近にある、ムルガン神の乗り物・孔雀の像)







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南インドの聖地、ラーメーシュワラム

2015-01-07 Wed : 聖地巡礼
『ラーメーシュワラム』という聖地

南インド、タミル・ナードゥ、スリランカに最も近い、海に突き出た半島に、
ラーメーシュワラムはある。

叙事詩「ラーマーヤナ」の主人公ラーマが、魔王ラーヴァナにさらわれてランカ島に囚われている妻シータを救い出すために、ここから橋を架け、ランカ島に渡った場所だ。

ヴィシュヌ神が、人間ラーマという形を取って、魔王ラーヴァナを退治する拠点となった場所、という言い方もできる。
シータの誘拐は、その誘因あるいは動機づけの働きを担ったのだった。

また、ラーメーシュワラムは、ジョーティル・リンガ(光のリンガ)と呼ばれる、シヴァ神のエネルギーが現れた神聖な場所の一つとして、多くの巡礼者が訪れる場所でもある。
インドには、代表的な12のジョーティル・リンガの聖地があるが、その一つだ。

ラーメーシュワラム島と本土を結ぶ鉄橋


ここのジョーティル・リンガは、ラーマがシヴァ神に捧げた祈祷(プージャ)に由来している。
シヴァ神の恩寵によって、勝利を収めることが出来たので、ラーマは祈祷を捧げることにした。
ラーマは最初、ハヌマト(ハヌマン)にカイラス山へ行って、リンガムとして祀る石を取ってくるように命じた。
しかし、祈祷の時間に間に合わなかったので、妻のシータが砂でリンガムを形作り、祈祷を捧げたといわれている。

ラーメーシュワール・テンプル
ラーメーシュワール・テンプル


ラーメーシュワール・テンプルは、最も長い回廊でも有名だ。
回廊を見学することは、外国人にも許されているが、
メイン・テンプルへ入り、24個あるティールタ(聖水)の水を頭から浴びて身を清めた後、
特別にリンガムを拝むことが許されるのは、ヒンズー教徒だけだった。

「ラーメーシュワールのジョーティル・リンガを拝み、聖なるガンガの水を浴びせかけた者はだれでも、カイヴァリヤ(解脱)を達成する」と信じられている、神聖な行為なのだそうだ。

今回ここを訪れた使命は、理由はわからなかったが、ウチなる導きに従い、ヴァラナシに行って汲んできたガンジス河の水を、ここのリンガムに浴びせかけることだった。
どうしたら可能になるか…。
取りあえず様子をうかがうために、夕方寺院を訪れた。
すると、寺付きのガイドが寄ってきた。

「私は、24のティールタのアビシェーカム(水を浴びて禊を受ける)を受けたい。そして、ヴァラナシで汲んできたガンガの水を、ジョーティル・リンガにかけたいのです。」とお願いした。
最初は、だめだと断られたが、「私はシヴァ神を信じるので、ヒンズーだ。」と主張した。
「ヒンズーなら、眉間にティカをつけているはずだし、額には灰をつけている。」というので、
「では、つけてください。」とお願いした。

熱意と真剣さが伝わったのか、シヴァ神の恩寵なのか…。
「わかった。君の願いは、私が請け負おう。今これからだったら、大丈夫だ。
ただし、特別なので、○○ルピーのガイド料を払いなさい。」
といい、願いを叶えてもらえることになった。

眉間に赤いティカの粉を、額には聖灰を塗ってもらい、まず24のティールタを順路に従って、回ることになった。
ラーマ・ティールタ、シータ・クンド、ジャタ・ティールタ、ラクシュマン・ティールタ、カピ・ティールタ、ブラフマクンド等々。
それぞれの井戸の前に立つと、小さなバケツのようなもので水をくみ上げ、頭から浴びせかけてくれた。

水が頭からかけられる瞬間、合掌して息を止めているのだが、それでも少し口の中に入ってしまう。
それぞれの水は、味が違い、ほのかに甘かった。
甘露だった…。

ティールタの聖水で身を清めてもらった後、更衣室で支度を調え、今度はメイン・テンプルへ案内された。
ヴァラナシで汲んだガンガの水を寺のガイドに渡し、列に並ぶ。
すると、奥の礼拝所で専任のパンディットが、順番に祈祷しながら、
本人に代わってリンガムにかけてくれるようなシステムになっていた。

「さあ。今度は君の順番だ。」といわれ、
自分の持っていったボトルの水は、リンガムに浴びせてもらったことを、確かに目撃した。
同時にお祈りをした。

「これで、僕が頼まれたことは全部完了だ。これでいいね。」
「ちょっと待ってください。シヴァ神に感謝のお祈りを捧げたいです。」
カラダが自動的に動き、シヴァの賛歌を捧げ、シヴァにひれ伏していた。

om namah shivaya.

アグニ・ティールタ(沐浴場)から見た夜明け前
もうすぐ日の出を迎えようとする東の空

巡礼者がアグニ・ティールタで沐浴している光景
日の出後、アグニ・ティールタで沐浴する巡礼者たち


ラーメーシュワラムの最東端
この青い空と海の向こうにあるランカ島を
じっと見つめたのだろうか、ラーマは。

ドゥルガー女神
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ガネーシャ寺院のある、ドーディタル (Dodi Tal) への巡礼

2015-03-30 Mon : 聖地巡礼
ドーディタルは、北インドのウッタルカーシーからジープでSamgam Chattiへ行き、そこからおよそ2日間のトレッキングでたどり着く。
森の中の静かな巡礼地(標高3301m)だ。

ガネーシャ神が単独で祀られている寺院は大変めずらしいので、貴重な存在だそうだ。
ドーディタルという六角形であった湖のほとりの森の中に、ガネーシャ神の寺院はひっそりと佇んでいた。
2013年の大洪水の時、土砂崩れがあったため、現在は六角形ではなくなっていたが。

ganesh temple


ウッタルカーシーの近くでヴァルナ川と合流する、アッシーガンガー川の源泉でもある。

途中宿泊したアゴダ(Agoda)村にさしかかるとき、雑穀アマランスが畑で豊かに実っていた。
燃えるようなエンジ色の小さな段々畑が、一枚ずつ一枚ずつ、とても美しかった。
赤いエンジ色は、鉄分が豊富に含まれているからなんだな。

ドーディタルにあと1時間位で着くというところに、土着神といわれるバイラヴ(Bhairav)の祠があった。
とても強力な、願いを叶えてくれる神様だという。
バイラヴ神も、実はシヴァ神の現れの一つであるといわれている。

アッシーガンガの川の流れが穏やかな平原地帯にさしかかった。
もうすぐドーディタル(湖)に着くのかなと思っていると、
左手の森の中に、大きなハゲワシが2羽もいるではないか。

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ラーマーヤナの物語の中で、ラーマ王の妻シータが魔王ラーヴァナに誘拐されようとしているとき、
命懸けで守ろうとして命を落としたハゲワシ・ジュターユスと同じ仲間だ。

立ち止まって、そっと見ていたが、大きな体をゆさゆさと揺らしながら歩いていた。

湖にたどり着くと、正面に、土砂の崩れた白い斜面が、まず目に入ってきた。
不思議なことに、その白い土砂は、きらきらと光っていて清らかであった。

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また、静寂なヴァイブレーションを湛えながら、
清らかメロディーを穏やかに奏でながら、
湖から流れていくアッシーガンガの清浄さは、
まさに神々の祝福を観るようだった。

翌朝6:30頃、ピーンと張った冷たい外気の中で、
プラーナヤーマで呼吸を調えた後、
サイレンスに没入した。

途中、小鳥がやってきて、左手にしばらく止まっていた。
お腹の部分が赤い、雀のような小鳥であった。

このボディが、小鳥に危険を感じさせないもの、
かつ思わず止まってしまったものになっていたという証か。

夕方、ベンガルからきた親子3人連れが、馬で巡礼にやってきた。
ヨーガのインストラクターであるご夫婦が、4歳の息子を連れて。

インド人は、子供に神様のご加護がたくさんあるようにと、色々な巡礼に一緒に連れて行くのだそうだ。


ドーディタルは、神聖な波動を湛える、素晴らしい聖地であった。
ここを訪れるように導いてくださった、ウチなる神、至高の存在にひれ伏して。
om namah shivaya.
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創造の讃歌 -存在の顕れ-

2015-06-20 Sat : 存在のバイブレーション(内なる音)
創造の讃歌 -存在の顕れ-

これは それなり。
これは 真理なり。

100万もの太陽の光輝を放ち、100万もの月の光輝を放つがごとし。
黄金の甘露が輝き満ちて あまねく天地を照らし出す。
これこそ、マコトのヒトの世を創造する エネルギーなり。

   不動の浄化の火よ。
   真理の炎よ。 絶対のアイの炎よ。 
   地の底から天をつらぬく 光の柱となって 燃え上がれ。


プルシャは プルシャにより プルシャとなった。
全ては プルシャであった。
プルシャは、靄(モヤ)のような全き チ に立ち、輝く黄金の大地を創造した。

シシ(四肢)によりて 四方八方へ。
コトによりて トドメて 十全。

この上なき完全による 完全な創造。
即ち、プルシャは プルシャを祀り プルシャを献げて プルシャを得た。

海となり 陸となり 山々となり 川となり 諸々となった。
鉱物となり 微生物となり 植物となり 動物となり
あらゆる生命体となった。

天空では、清らかな讃美の鐘が鳴り響き、空は金色に染まった。
地は、甘い優美な祝福の香りで満たされた。

天地は、全き自然の調和と秩序で、充分に満たされた。
顕現せしヒトの心は、愛と平安で、充分に満たされた。
世は、完全なる自然法により、完全なる宇宙法により、自然統治された。

まさに、マコトのヒトの世 成りゆきたる。
途切れることのない幸福、刹那刹那を生きる創造の歓び、永遠の至福。
純粋意識の絶えざる流れなればこそ。

このようにして、プルシャは 満ち足りたプルシャを成就した。

  om namah shivaya.
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パンチ・ケダール巡礼その1、ケダルナート寺院

2015-07-20 Mon : 聖地巡礼
シヴァ神のジョーティル・リンガが祀られてる、神聖な寺院ケダルナート

ケダルナートは、リシケシからバドリナート・ロードを5-6時間車で登っていき、ルドラプラヤグ(アラクナンダ川とマンダキニ川が合流する所)から、マンダキニ川をずっと上流まで遡っていく。

マンダキニ川は、いつでも緑色に澄んでいて濁りのない川だ。
バドリナートから流れてくるアラクナンダ川は、泥で濁っていることが多いので、ルドラプラヤグで合流するところをみると、2色の川が激しくぶつかる様を目にすることだろう。

ケダルナート(3584m)は、北インド・ヒマラヤの四大聖地の一つであり、
12のジョーティル・リンガの一つが祀られている寺院でもあり、
マハーバーラタという叙事詩に起因する聖地、パンチケダール(5つのケダール)の一つでもある。

kedarnath peaks
ケダルナート・ピークス


2013年6月の大洪水のときは、ケダルナート寺院のさらに上部にあるガンディ・サロワール湖が大雨で決壊して、鉄砲水によってたくさんの巡礼者、建物、土産物屋など、ありとあらゆるものが流されてしまったという。
被害に遭われた方々には、心からお悔やみを申し上げたい。

ガンディ・サロワール湖は、マハトマ・ガンジーの遺灰の一部がこの湖に撒かれたことから、この名前がつけられたそうだ。
この湖は、決壊してしまったので、現在はもう存在しない。

在りし日のgandhi sarovor
在りし日のガンディ・サロワール湖


2014年の秋、パンチケダールを巡礼する旅に出かけることになった。

ケダールとは、隠れるというような意味を持つ言葉だ。
これにまつわる神話を紹介しよう。
マハーバーラタの時代に、登場人物の英雄・パーンダヴァ兄弟(パードゥ王の王子たち)が、血のつながった一族同士の戦争において、たくさんの敵を殺し血を流してしまった罪を清めたいと欲し、ヒマラヤ山中にシヴァ神を探していた。
しかし、シヴァ神は、隠れていた。
あるとき、聖なる牛の群れに出会ったパーンダヴァ兄弟5人。
その内で剛力のビーマは、もしシヴァ神が牛に化けてこの牛の中にいるとしたら、自分が足を掛けて作ったトンネルの下をくぐることはしないに違いないと考え、牛の進路に足でトンネルを掛けた。

すると、最後に残った1匹の牛は、ビーマの足の下をくぐろうとしなかった。
パーンダヴァ兄弟が、この牛を捕まえようとすると、この牛は、地面に潜って身を隠した。
やはり、シヴァ神の化身だったのだ。
そして、カラダの5つの部分が、再び地上に現れたという。

1番目は、ケダルナート Kedarnath で、背中のこぶの部分。
2番目は、トゥングナートTungnath 。腕の部分。
3番目は、ルドラナート Rudranath 。顔の部分。
4番目は、マディヤマヘッシュワール Madhyamaheshwar 。へその部分。
5番目は、カルペシュワール Karpeshwar 。頭部と髪毛。

ゆえに、特にシヴァ神の信者たちは、全て徒歩でこの5つのケダールである聖地を巡礼することを行じる。
バスや車を使わないとしたら、2-3ヶ月以上は、かかるのではないだろうか。

取りあえず、自分はガイドとSon Prayagまで車で行った。
ここでケダルナート巡礼の登録し、医者の検診後、登録証をもらった。
これがないと、巡礼中のサービスが受けられないという。

今までの巡礼路は、マンダキニ川の左側にあったが、泥に埋まってしまっていたり、道が崩れ落ちていたりと危険なので、反対の右側に新しい巡礼路と途中休憩・宿泊の施設などが作られていた。

途中に、この大洪水で亡くなられた方たちの慰霊碑があったので、祈祷を捧げ冥福を祈った。
行く途中に、大小の滝がいくつもあり、小さな虹を見せていただいた。
虹は、希望の架け橋である。

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ケダルナート寺院とその周辺

ケダルナート寺院に祀られているジョーティル・リンガは、ピラミッドのような形の岩だった。
牛のこぶの形とも、言えるだろうか。

触れてもよいかと聞いたら、よいと言うので、
リンガムにそっと触れてみた。

深い奥の方で、神聖なバイブレーションを観じることができた。
やはり、ここはシヴァ神の神聖な聖地であることに、変わりはなかった。

寺院の後ろ、つまり鉄砲水がやっていた方向に、大岩がやってきたために、寺院の全壊は免れたそうなので、
この大岩は、今や聖なる岩として祀られていた。

また同じ後ろに、偉大な聖者アディ・シャンカラのサマーディ(霊廟)があったはずだった。
見ると、聖者アディ・シャンカラの石像は、掘り起こされていた。
見つけたときは、とても嬉しかった。
この聖地をずっと守り続けている、偉大な聖者の力を観じた。


それでも起こったこの洪水は、何なのだろうか。
人智を超えた絶対的な秩序、あるいは創造主において、
どうしても避けられなかった、何らかの必要性があったということなのか.......。


地上にある物理的な痛ましさは、時がしだいに解決してくれるに違いない。
しかし、人々の心の中に刻まれた傷は、重い。
これもシヴァ神のご加護により、必ず癒やされるようにと、
ただ祈ることしかできなかった。

om namah shivaya.
合掌
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パンチ・ケダール巡礼 その2 -Tungnath-

2015-09-09 Wed : 聖地巡礼
トゥングナート寺院 Tungnath

Sonprayag(ソンプラヤグ)からローカルジープに乗って、Ukhimath(ウキマート)へ。
Ukhimathから、さらにタクシーでChopta(チョプタ)へ向かった。
チョプタが、トゥングナート寺院へ登っていくためのベース基地になる町だ。

チョプタ(2900m)から、トゥングナート寺院(3886m)まで登っていく巡礼路。
サリー姿の年配のご婦人たちも登っていくのだから、信仰の力は本当にすごい。
舗装された参道があるので、標高差はあるものの、通常2時間半位で登れる感じだ。

Tungnath

まずは、寺院に参拝した。
中に入ると、中央にシヴァ・リンガが祀られていた。

寺院の司祭(プリースト)が、短い祈祷をしてくれた。
天気が良くなかったせいか、他に誰もいなかった。
中でしばらく瞑想してもいいかと聞くと、「いいよ。」と言ってくれたので、シヴァ・リンガの近くで一人瞑想に入ることが出来た。
小1時間位は、たっただろうか。

外に出ると、司祭が自分の写真を撮ってもよいというので、記念写真を写した。

Tungnath 2

標高がかなり高いので、気温はかなり低い。
雲行きを見ていると、明日の日の出は見られそうになかった。
それで、チャンドラ・シーラという4000mの頂きへ、その日の午後に行くことにした。

チャンドラ・シーラとは、「ラーマ・チャンドラの岩」という意味。
ラーマーヤナの主人公であるラーマ・チャンドラが、そこへ行って、そこの岩の上で瞑想したことから、この名前が付いたと言われている。

片道30分ぐらいだそうだ。
ガイドが、「あそこに旗が見えるだろう。あそこがそうだ。」と言う。
見上げてみると、急傾斜で遠くに見えたが、黙って後ろを付いていけば、必ず行き着くだろうと思い直し、ただ歩き続けた。

黙々と歩きながら、ふと思った。
この同じ道を、以前にラーマとシータとラクシュマナの3人が歩いたんだと。
なぜか、心が弾んで嬉しかった。

チャンドラ・シーラの頂きに着くと、そこには祠があり、中にはガンガー女神が祀られていた。
ガンガー女神に祈祷を捧げ、祠の裏にある大岩の上で、しばらく瞑想に入った。

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ラーマたちも、ここで瞑想をしたという。
同じ場所で、自分も瞑想をしている。
何とも言われぬ、感激だった。

青空が見えていたのに、3時頃、ポツポツと雨が降り始めたので、下山した。
トゥングナートに着く頃には、本降りになり、氷のビー玉のような雹も降ってきた。
浄化か........。

しばらくすると、雨はやみ、夕陽の光を受けて、ケダルナート・ピークの山並みが北側に浮かび上がった。

ケダルナート寺院とトゥングナート寺院は、エネルギー的に陰陽の一対になっているようだった。
感謝。合掌。

om namah shivaya.


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パンチケダール巡礼 その3

2015-11-08 Sun : 聖地巡礼
Rudranath ルドラナート巡礼

パンチケダール巡礼の中では、最もタフな巡礼だといわれる。
険しい急登を超え、長い距離を歩いてやっとたどり着く寺院だ。
自然の岩窟を利用して建てられた、シヴァ神の顔・ルドラのエネルギーを表現している聖地。

Chopta チョプタから Sagar サガールへ車で移動。
初日は、サガールからPanar Buggyal パナール・ブッギャル という峠へ、約13kmのトレッキング。
パナールからのヒマラヤの山々の眺めは、最高だった。

trekking to panar
あの尾根を登り切ったところが、パナール・ブッギャル。

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途中小雨が降った後、雲が明けて太陽光線が美しく差し込んだ。

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その後に現れた虹。

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パナール・ブギャルに到着したときの夕陽の眺め

翌朝、パナールからヒマラヤの山々が360度見渡せ、ナンダ・デヴィ (インドで2番目に高い霊峰)の美しい姿もはじめて目にした。
早朝、狐にも行き会った。
そしてRudranath ルドラナートへ。約10kmのトレッキング。
夕方、やっとたどり着いた。

ルドラナートでは一日滞在し、朝寺院へ参拝。
朝は、まだ寺のプリースト(神官)が、ご神体の岩にルドラの顔を描いているところだった。

「Sundar スンダル(美しい)!」 と思わず言葉を発したら、
プリーストはにっこりしたが、もう少し待ってほしいと言われた。

外の風は、少し寒かったが、1時間以上は瞑想していただろうか。
そのうちに準備ができたらしく、同様にお参りに来ていたインド人がプリーストにプージャを依頼したので、一緒に参列させてもらった。

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ルドラナート・テンプル

プージャのプラサード(お下がり)として、一人一人にブラフマ・カマル(雪連の一種)を頂いた!
感激だった。

ブラフマ・カマルは、シヴァ神が最も喜ぶ捧げ物として知られる花だ。
4000m以上の高山でしか見られず、雨期に花咲く。
通常は、山に咲いている実物と行き会っても、それを手にすることはできないだろう。
なのに、こうして大きな一輪を手にできたとは。。。

次の日、ルドラナートからAnsuya Devi アンスヤ・デヴィへ。
急な下り道を降り、最後に少し登り返してやっと到着。
アンスヤ・デヴィは、ブラフマ・リシであるアトリ仙の妻であり、雨をもたらすために1000年もの苦行を積んで、
人々を救ったといわれる女神さまだ。


実は、パナールで食べた夕食がよく消化できず、胃にガスが多量発生してしまったために、
食べ物が食べられず、下腹部に力が入らず、ふらふら状態で歩き続けていた。

ルドラナートからアンスヤ・デヴィへの道のりも、朝7時に出発し、たどり着いたのは夜7時頃だった。
通常のエネルギーのみならず、非常用の予備エネルギーも使い尽くし、
思考力は全く働かず、倒れる一歩手前。
本当に空っぽになっていた。

巡礼宿で、ダル豆のスープとご飯を少し頂いたあと、ベッドに倒れ込み、すぐに意識が遠のいた。

驚いたことに、夜中に女神様が、アンスヤ・デヴィがガネーシャ神を伴ってヴィジョンで現れた。
アンスヤ・デヴィは、空になったボディに新しいエネルギーを注ぎ入れてくださった。

翌朝目覚めると、不思議なことに、身体が軽く、普通に歩けるように回復しているではないか。
体温も、今までより上がっていた! びっくりだ。

早朝、アンスヤ・デヴィの寺院へ、参拝した。
感謝を捧げ、讃歌を献上し、アンスヤ・デヴィのエネルギーを観じ、祝福に満たされた。

Ansya Devi Temple


その後、Mandal マンダルへ下山。
合計、39kmのトレイルを何とか歩き通すことができた。
神々のご加護のおかげに違いない。

シヴァ神に、ルドラ神に、そして女神アンスヤ・デヴィに ひれ伏して。

om nama shivaya.





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パンチケダール巡礼 その4

2015-11-19 Thu : 聖地巡礼
マディヤマヘーシュワール寺院への巡礼
Madhyamaheswar Temple


パンチケダールの中で、へその部分がを顕れた場所といわれている聖地。
標高、3497m。
パーンダヴァ兄弟たちが建てたお寺だという。

Mandalから乗り合いジープに乗り、Rashiへ昼過ぎ頃着いた。
ここからGaundar村まで、約4km歩く。
翌日は、4-5時間歩いて、Nanu Chattiに泊まった。
途中のティーショップのおじさんが、庭にたくさん咲いている花を摘んでくれ、持たせてくれた。
寺に献花するようにという、計らいだと観じた。

翌日、ナヌ・チャッティからマディヤマヘッシュワール寺院へ、4-5時間歩いて昼過ぎ位に到着した。
まだ体調が完全に回復していないので、非常にゆっくりなペースで歩いた。
深い森の中の、開けた場所に建てられている、神聖な寺院だ。

Madhyamaheswar Temple


午後、寺にお参りをして、頂いたお花を神様の像やパーンダヴァ兄弟たちの祠に献花した。

ふと山の斜面を見上げると、赤と黄色の旗がはためいているのが見えた。
気になったので、そこに行ってみると、マーハー・カーリー女神が祀られていた。
寺のスワミがお供えしたと思われる、ブラフマ・カマルも飾られていた。

Maha Kali


ウチなる導きにより、ここで祈祷を行った。
最初、カーリー女神が威嚇してきたように、観じられた。
しかし、夫であるシヴァ神の波動を感じ取り、協力することを約束してくれた。
非常に強烈な女神様だ。

19:00から、寺でアーラティという火の儀式に参加した。
そのとき、プラサードとして、白い花を頂いた。

翌朝、朝日が降り注ぐ中、神聖なエネルギーを観じて、写真を撮した。
バッファローに、不思議なエネルギーが写っていた。
バッファローは、ヤマ神(運命を司る神、または死を与える神)の乗り物だという。インドでは。

madhyamaheswar sunrise


帰り道、お花をもらったティーショップにまた寄った。
おじさんに、プラサードとしてもらった白い花を差し上げた。
とても喜んでくれたので、良かった。

Gaundar の少し手前にある Bantoli という村に一泊することにして、ここで遅めのランチを食べて休息していたら、
急に突風が吹き始め、黄色い砂嵐をそこら中に巻き起こしていった。
激しい雨も降ってきた。

まるで、カーリー女神が力を見せつけているかのようだった。
すごい威力だ。

これに同調し、浄化の祈祷を捧げた。
この日の月は、13夜。
月の真ん中から、虹色の光線が煙のように吹き出し、不思議なエネルギーが現れていた。

何か必要なことが起こっているようだった。
人智を超えた、創造主のみが知りうること。

om namah shivaya.









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パンチケダール巡礼 その5

2016-02-01 Mon : 聖地巡礼
カルペシュワール寺院 Kalpeswar Temple 巡礼

カルペシュワール寺院は、パンチケダールの中では一番東にある寺院で、聖地として名高いバドリナートは、ほぼ同じ経度で少し北に位置する。

サガール村 Sagar からゴペシュワールGopeswar に車で向かい、まず、シヴァの寺院へお参りに行った。
この日は、月食のある満月の日であったため、メインテンプルは閉まっていた。

インドでは、月食や日食は、見ない方が良いとされている。
宇宙の否定的影響を身体が受けるのを避けるために。

本堂には入れなかったが、敷地内をぐるりと回ってみた。
サドゥや修行者も、みんないなかった。

車で、ウルガム(2134m)という手前の村へ行くはずだったが、途中土砂崩れのため、道路は通行不能。

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土砂崩れの道路を、コマツのブルドーザーが修復していた。

そこから降りて、45分ぐらい歩き、乗り合いジープのあるところまで行った。
ここからジープに乗って30分位。
ウルガムに、2時頃やっと到着した。

ここからカルペシュワール寺院(2200m) まで、歩いて1時間強だ。
ここも、月食のためにスワミやプリーストが寺にはいなかった。
聞くと、月食の時間帯が終わってから、プージャをするのだそうだ。

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月食や日食は、人類全体のカルマのために、地球および人類全体が太陽系の惑星たちから否定的波動の影響を受けるもの。

満月の日の月食の時間帯の前に、この否定的影響を除去する祈祷を、カルペシュワール寺院で行った。
全ては、至高の存在であるシヴァ神の、御心のままに。。。。。

om namah shivaya
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カールティック・スワミ寺院

2016-04-22 Fri : 聖地巡礼
カールティック・スワミ寺院

インドヒマラヤ・ガルワール地方は、神々の住処といわれる場所だ。
その中で、シヴァ神の長男であるカールティケーヤ神、スカンダ神、ムルガン神などの呼び名を持つ神を祀る寺院は、ここ一つだけだそうだ。
南インド、特にタミールナードゥ州では大変人気の高い神様で、ムルガン神の寺院はたくさんあるのだが。

アラクナンダ川とマンダキニ川が合流するルドラプラヤグから、約40km。
カナク・チャウリという村から、3kmトレッキングすると、山頂に寺院がある。
標高、3060m。

山頂部は細長く、周りは360度深い谷に囲まれている。
360度のヒマラヤの絶景、そしてご来光や日の入りを見るのに最高の場所でもある。

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満月の日に、参拝した。
パンチケダール巡礼を終えて。

このボディは初めて来たのに、懐かしさがこみ上がってきた。
「あっ。子供の時に父母と一緒に来たことがあるような…。」
チッタに刻まれていた過去生の印象が、嬉しさと一緒に上がってきて、そして出て行った。
過去生のデジャブのようだった。

ヒマラヤに沈む夕陽が、赤く燃えて、美しかった。

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テンプルの近くにあるアシュラムに泊めてもらった。
米や小麦粉を持参して、アシュラムのスワミに差し出し、食事をお願いした。
簡素だが、サトヴィックな食事を頂くことができ、ありがたかった。

ヒマラヤの山々から昇る満月と、 そして朝日を眺め、
今回の一連の巡礼の完了を祝した。

ガネーシャ(ドーディタルの寺院)で始まり、ムルガン(カルティック・スワミ)で完了となった。
ブッディではじまり、シッディで完了ともいえる。
33日間、128kmを歩き通す巡礼だった。

シヴァ神の計らいは、粋だ。
om namah shivaya.





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聖なるガンジス川とは何か

2016-05-25 Wed : 聖地巡礼

聖なるガンジス川 降下の神話



ガンジス川とは、如何なるものか?
空界(天上界)の清浄な流れであったガンジスは、神々の求めにより一旦天界へ昇り、次に人の魂の穢れを清めるために、地上へ降下したといわれる。

地上に降下し、人々の罪や穢れを清める、最上なる川といわれる大河。
山の神ヒマラヤの長女、ガンガ-女神が川の形をとったもの。
母なるガンガーとも呼ばれる。

ガンジス川の全長は、2525mとされ、最後はベンガル湾に注ぎ込む。
ヒマラヤの標高3892m、ガンゴートリ氷河の麓、ゴームク(牛の口という意味)と呼ばれる場所からバギラティ川が現れる。
このゴームクが、ガンジス川の源流だと考えられている。

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ゴームクとその背後にそびえる、バギラティ峰

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神話によると、
アヨーディヤー国王の威徳に輝くサガラ王が、ある祭式を執行しているとき、祭式用の馬が盗まれた。
王の命令により、サガラ王の6万人の息子たちが、全ての土地を追跡し、祭馬を発見するまで大地を堀り尽くしていった。
地下界を掘っていくと、王子たちは、東の方位に大地を支えている山のような『方位の象』を見たという。
「大象ヴィルーパークシャは、山も森も含めて全大地を頭で支えていた。
時節の変わり目になって、この大象が疲れて、疲労を休めるために頭を振ると、そのとき地震が起こる。」
(引用:新訳ラーマーヤナⅠより)

南の方位には、マハーパドマ象が、
西の方位には、サウマナサ象が、
北の方位には、バドラ象が、頭で大地を支えていた。

王子たちは、次に東北の方向へ進んだ。
(東北は、イーシャ神(シヴァ神)の方向である。)
そしてそこには、クリシュナ神の化身である聖仙カピラがおり、また盗まれた馬もいた。

王子たちは、カピラが盗んだのだと思い、怒りにまかせてカピラに襲いかかった。
しかし、聖仙カピラが放った「フン」という怒りの声によって、6万人の王子たちは灰の塊にされてしまった。

サガラ王は、遠くへ行ってしまった王子たちのことを知り、今度は孫アンシュマトに叔父たちの後を追って、必ず馬を連れ戻すようにと命じた。
アンシュマトは、叔父たちが掘っていった地下界を進んでいき、四方位の守護象に礼儀正しく敬意を表した。
そして、叔父たちが灰の塊にされたところへ行った。
アンシュマトは、叔父たちが灰の塊にされてしまったことを非常に悲しみ、何とか水供養をしてあげたいと思って水を探したが、見つからなかった。
すると、風のように早い鳥の王、スパルナ鳥が現れて、次のように言った。
「人中の虎よ。悲しむのはおやめなさい。この殺害は、世界に幸福をもたらすものですよ。(何故なら世界に幸福をもたらすガンジス川が、彼らを清めるために天界から地上に降下する原因となるのだから。)
この者たちは大力であったが、無量の威力を持つカピラによって焼き尽くされました。
だから、英知の者よ、この者たちを俗世の水で供養しても、効果はありません。
人中の虎よ、偉大なる腕の持ち主よ、ヒマラヤの長女のガンジス川の水で、叔父たちへの水供養をしなさい。
世界を清める彼女は、灰の塊となったこの者たちを洗い清めるでしょう。
そして、この灰が世間の人々の愛するガンジス川の水で濡れると、6万人の王子たちは天国へ行くでしょう。
大きな幸運の者よ、馬を曳いて出発しなさい。勇士よ。そして、祖父の祭式を完成させなさい。」
(引用:新訳ラーマーヤナⅠより)

祭馬が戻り、祭式は完了された。
サガラ王は、ガンジス川を地上に降下させる方法を見いだし得ないまま、3万年という長い間、王国を統治してから天界に昇ったという。
次に王位を継いだアンシュマト王、その息子ディリーバ王も、ガンジス川を地上に降下させて水供養をする方法を見つけられなかった。

ディリーバ王の息子であるバギラティ王は、ラージャ・リシ(王仙)であった。
バギラティ王は、国民と王国を大臣たちに任せて、自分はガンジス川を地上に降下させるために、厳しい苦行に専念した。
恐ろしいまでの苦行を1千年も堅持していると、祖父神梵天が現れ、願いを叶えてもらえることになった。
しかし、直接ガンジス川が地上に降下すると、大地はそれを支えることはできないであろうから、最初にシヴァ神に受け止めてもらうようにお願いせよと言われた。

バギラティ王は、梵天が去った後、足の拇で大地に立って、1年間シヴァ神に敬意を捧げた。
シヴァ神は、バギラティ王の苦行に満足して、ガンジスを頭で支えることを約束した。
そこで、ガンジスは激流となって、虚空からシヴァ神の頭の上に落ちた。
ガンガー女神は、奔流によってシヴァ神を摑まえて、自由気ままに好きな方へ流れようという高慢な考えを持ったが、シヴァ神はこれを知って怒り、シヴァ神の束ねた髪の中から出られなくさせてしまった。
数年間、シヴァ神の髪の中から出口を見つけられなかったガンガー女神だったが、バギラティ王が再び最高の苦行を捧げ、それに満足したシヴァ神は、ガンジス川を地上に放出した。

ガンジス川が放たれると、7つの流れが生じた。
7番目の流れは、バギラティ王の後を付いて流れた。
光り輝く、汚れのない清らかな水は、はじめにシヴァ神の頭に落ちて、再び地上に落ちた。
「シヴァ神の身体から落ちた水は、罪を清めてくれる。」と、呪詛により天界から落ちた天人や人々は、その水で沐浴をした。

バギラティ王の進む道、それがガンジス川の進む道となり、全ての罪障を清めながら流れていった。
それから、激しい流れであるガンジス川は、途中で偉大なジャフヌ仙が祭式を行っていたアシュラムを、水浸しにして壊してしまった。
ジャフヌ仙は怒って、ガンジス川を全て飲み干してしまった。
バギラティ王の祈祷を受けて、ジャフヌ仙はガンジス川を耳から、ムクバという地で放出した。
ジャフヌ仙の娘となって流れ出たので、それに因んで、ジャフナヴィー川とも呼ばれる。

再び、ガンジス川はバギラティ王の後に付いていき、大海に達した。
大海に達した後、バギラティ王はガンジス川と共に地下界に入って行き、灰にされて意識を失った叔父たちに、ガンジスの光り輝く水を注いだ。
かれらは、罪障を浄められて天国へ昇っていったという。
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ゴームクの背後にそびえる、Mt.Shivling


バギラティ川と合流するアラクナンダ川は、ナンダデヴィ峰、トリスリ峰、カメット峰などの頂からの雪解け水が小川となって流れこみ、
ヴィシュヌプラヤグでダウリガンガ川と合流し、
ナンダプラヤグでナンダキニ川と合流し、
カルナプラヤグでピンダール川と合流し、
ルドラプラヤグでマンダキニ川と合流し、
デーヴァプラヤグでバギラティ川と合流し、
ここからガンジス川と呼ばれる。
(以上は、パーンチ・プラヤグと呼ばれる5つの川の合流点。)

om namah shivaya

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ガンジス川の源流 その2

2016-09-01 Thu : 聖地巡礼
ガンジス川の源流をたどる旅

リシケシからウッタルカーシーを経て、ガンゴートリへ向かう。
乗り合いジープに乗るなら、通常は2日かかる。
1日で行くならば、朝の5時頃タクシーに乗れば、夕方5時頃にはガンゴートリに到着する。
およそ12時間。悪路に揺られながら、時々トイレ休憩と食事休憩の時間はとるが。

ガンゴートリは、標高約3100m。
ヒンズー教徒ならば、一生に一度は巡礼したいという、ヒマラヤのチャールダーム(4つの巡礼)の巡礼地の一つ。
毎年、雪解け後の4月頃、寺開きがあり、10月か11月の新月、Diwaliフェスティバルの時に、寺はクローズする。
gangotri temple

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ここからトレッキングをスタートする。
バギラティー川に沿うようにして、登ったり、山肌をトラバースしながら、Bhojuwasa (3792m)へ。
14km、およそ7-8時間。
Lal Baba Ashram に泊めてもらった。

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翌日は、標高3892mのGaumukhを経て、Tapovan(4463m) へ。
ゴームクは、牛の口という意味。
ここから、バギラティー川が吹き出しているので、ここが一応ガンジス川の源流ということになっている。
このガンゴートリ氷河も、年々後退しているという。

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ちょうどゴームク上部を通過して、ガンゴートリ氷河を左から右へ渡り、そして結構な急坂を登ると、タポヴァンに着く。
タポヴァンでは、マウニ・ババ(沈黙行をしている修行者)のアシュラムに2泊泊めてもらった。

昔から、多くの修行者がタパス(苦行)を行ってきた場所であるので、タポヴァンと呼ばれる。
神聖な場所であるのだ。
朝日を浴びて、遠くの岩に野生の山羊が光っていた。
目の前にMt.Shivlingが大きくそびえている。
シヴァ神に見守られているような、そんな素晴らしい場で、岩の上に座って、サイレンスにずっと没頭した。

マハラシュトラ州から巡礼にやってきた母子連れがいた。
娘は20才、母は40代。父は、ボジュワサで待っているそうだ。
普通の運動靴で、防寒着も十分ではないが、それでも強い。すごい。。。
ハリドワールから、ずっと歩いて巡礼をしていて、チャールダームとパンチケダールの聖地を巡礼するのだそうだ。

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途中、ヒマラヤン・ブルーシープの群れがやってきた。
他の巡礼者が撒いた塩をなめに来たのだった。

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なんという祝福だろうか。ここにいるということは…。
om namah shivaya

帰りの道のりは、タポヴァンからボジュワサへ、約4-5時間。
翌日、ガンゴートリまで6-7時間を歩いた。

ウチなる神は、パンチケダールの5つの巡礼を終えた後、再びガンゴートリへ来るようにと導き給う。
答えは、イエスしかない。

合計33日間、128kmの巡礼を終えた後、再びガンゴートリにやってきた。
ウチなる導きにただ従って。

そして10日間の行を行い、新月のディワリの日、寺院のクロージングの儀式を見学し、その翌日にガンゴートリを後にした。

この世に平安が満ちるように、人々の心に平安が満ちるように。
自然法の秩序と調和が高まりますように。
全ての人々の魂が救われますように。

om namah shivaya.
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シヴァ神の聖地、火の元素を祀る アルナーチャラ

2016-10-21 Fri : 聖地巡礼
南インドの聖地、アルナーチャラ

タミルナードゥ州、チェンナイから車で3-4時間。
アルナーチャラという聖地がある。
ティルヴァンナーマライという小さな町だ。

南インドに五大元素を祀る寺院が5つあるが、その中の、火・アグニを祀る寺院がここにある。
アルナーチャラ山から見下ろしたアルナーチャラ寺院

そして、ご神体であるアルナーチャラ山は、シヴァ神の現れそのものといわれている。
単独の山で、約691m。東側は崖だが、神聖な場所とされ、
西側には森が広がり、洞窟や隠棲所がいくつもある。

聖者ラマナ・マハルシが生涯過ごした場所でもあり、ラマナ・マハルシのアシュラムもある。

この町に巡礼に来た巡礼者は、シヴァ神の現れである聖なるアルナーチャラ山を想い、静かに山の周りを回る。(ギリ・バラムという)

インドには、次のような言い伝えがある。
"By seeing Chidambaram, by being born in Tiruvarur, by dying in Kasi, or by merely thinking of Arunachala, one will surely attain Liberation."

訳 「チダムバラムを見ることにより、ティルヴァルールに生まれることにより、カーシー(ヴァラナシ)で死ぬことにより、あるいは、
ただアルナーチャラを想うことにより、人は必ず解脱を達成するだろう。」

解脱。すなわち輪廻のサイクルから解放されることは、ヒンズー教徒のすべてにとって、人生の目的であり、悲願であるから。


東のインドラ神の方角からスタートする。
それぞれ8つの方位にリンガムが祀られているので、その寺院をお参りしながら、裸足で歩く。
インドでは、8つの方位を司る神様がそれぞれいらっしゃるので、それに従っている。

東に、インドラ・リンガム。(インドラ神、神々の王)
東南に、アグニ・リンガム。(火神)
南に、ヤマ・リンガム。(死神)
南西に、ニルティ・リンガム。(ラクシャ、魔神)
西に、ヴァルナ・リンガム。(ヴァルナ神、海の神、水神)
北西に、ヴァーユ・リンガム。(風神)
北に、クベーラ・リンガム。(財宝神)
東北に、イーシャ・リンガム。(シヴァ神の古い呼び名)

1周は、およそ14km。
満月の時、ギリバラムを行うことは、大変吉兆だといわれる。
満月の日には、山頂で大量のギーが神に捧げられ、ドラム缶で燃やされる。

一年の内で最も吉兆な満月は、10月または11月(カールティク月)の満月で、
この日に山頂で燃やされる火は、マハー・ディーパムと呼ばれる。
約2トンのギーが燃やされるそうだ。


♪アルナーチャラ・シヴァ、アルナーチャラ・シヴァ♪
♪アルナーチャラ・シヴァ、アルナーチャラ・シヴァ♪


「アルナーチャラの大地のエネルギーを、足からも取り入れよ。」

ウチなる神が、そのようにおっしゃるので、自分も裸足でギリバラムを行うことにした。

2015年11月23日、月曜日。
月曜日は、吉兆なシヴァ神の日だ。
この日は雨が降っていたが、火の大地は、温かかった。
11月なのに、裸足で歩いていても、ちっとも冷たく感じなかった。
不思議だった。

翌日、24日はアルナーチャラ山頂へ登った。
麓を8:30にスタートし、9:45に着いた。(約1:45)

山頂には、火の番人をしている修行者やスワミ、インド軍人の巡礼者などがいた。

大きなオレンジ色の、ギーを燃やすドラム缶もあった。
ギーを燃やすドラム缶

大岩がゴロゴロしている山頂で、この岩がリンガムだと教えてもらった。
アルナーチャラ山頂のリンガム岩


その近くで瞑想をしたいというと、落ちる心配のない岩を指して、「ここでするといい。」と一人の修行者が教えてくれた。
あっという間に、1時間ほどたっていた。
密度の濃い時間というか、満ち充ちとしたサイレンス…。
中心の宙神…。

サイレンスから戻り、ゆっくり立ち上がると、先ほどの修行者が、すぐ近くにある自分のアシュラムにちょっと寄りなさいという。
あとを付いていくと、質素なアシュラムに、兄弟弟子たちが3人いて、お茶をご馳走してくれた。
お礼に、行動食として持っていたバナナを全部プレゼントした。

彼のグルは、Sri Ayya Narayana Guru Swami ji といい、何年も飲まず食わずで瞑想し続けた、偉大な方だそうだ。

下山すると、お寺の周りでは、プラサード(神様に捧げたお下がり)の食べ物を配っていたので、それを美味しく頂いた。

翌日11月25日は、満月。マハー・ディーパムの日。
町中、人でごった返していた。
宿が取れなかった人たちは、お寺入り口付近の空き地に雑魚寝していた。
毎年、このフェスティバルには300万人もの人が集まるというから、すごい。

人混みを避け、この日は、アルナーチャラ山へ登る途中にある、
ラマナ・マハルシが修行していた洞窟のある、スカンダ・アシュラムへ行くことにした。
穏やかで調和的な波動の、ステキな場であった。
スカンダ・アシュラム(ラマナ・マハルシの洞窟)


洞窟の中は静かで、数人が瞑想していた。
自分も場所を見つけて、石の上に座った。
8:30amだった。

2時間位たった頃だろうか。
「om namah shivaya, om namah shivaya ~」、と数回、誰かがマントラを唱える声がきこえた。
パーフェクトなチャンティングだった。

一体誰が?、と目を開いて辺りを見たが、唱えているような人はいなかった。

不思議な体験だった。
12:30にサイレンスから戻り、声がした方向を確認してみたら、ラマナ・マハルシが生前座っていたソファが置いてあり、写真が飾られていた…。


夜に、山頂で点火されたマハー・ディーパム。
下からも、よく見えた。
巡礼者たちは、それぞれの宿の屋上に上がって、お祈りをあげたりしながら、それを見ていた。

自分も、宿の屋上でディーパム(火)を捧げてプージャを行った。
ちょうど、満月のムーンライズも見ることができた、幸運な日だった。

マハー・ディーパムの日の満月


この日に、ここへ来るように導いてくださった、シヴァ神にひれ伏します。

地球が元気を取り戻し、甦りますように。
一人一人の心が、愛と平安で満たされますように。
om namah shivaya, om namah shivaya, om namah shivaya
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風の元素を祀る、シュリ・カラハスティー寺院

2016-11-27 Sun : 聖地巡礼
ヴァーユ・リンガムのある、
シュリ・カラハスティー(Shri Kalahasti) 寺院


内なるコエは、火の要素の次に、風の要素を祀る寺院に行くことを求める。
タミルナードゥ州とアーンドラプラデーシュ州の境界にやや近い所にある聖地で、クリシュナ川沿いに位置していた。

アルナーチャラ(火の要素)、シュリ・カラハスティ(風の要素)、チダムバラム(空の要素)、カンチプーラム(地の要素)、の寺院は、東経79度上に位置する。
特に、後半の3つの寺院は、ほぼ一直線だ。
水の要素を司るジャンブケシュワール寺院(ティルチ) は、東経80度なので少しずれる。
南インドでは、ラーメーシュワラムも、79度ラインだ。

北インドのヒマラヤ地帯にある聖地も、重要とされているものは、ほとんど79度ラインに位置しているのも、大変興味深い事実だ。

例えば、ガンジス川の源流地といわれるゴームク、バドリナート、その奥地にあるサトパンタ湖、ジョシマート、
5つのケダールであるケダルナート、トゥングナート、ルドラナート、マディヤマヘーシュワール、カルペシュワール、
クマウン・エリアのドゥーナギリ、ジャゲシュワールなどもそうだ。


ひっそりとした場所にある、巡礼地シュリ・カラハスティーに到着した。
このお寺、つまりヴァーユ・リンガムを祀るために選ばれた場所のようであった。

ヴァーユ・リンガムのシンボル


巡礼宿しかないようだ。
それで、まずは巡礼宿の部屋を確保してから、寺に参拝した。
参拝後、内なるコエは、裏山の頂きに行くように導いているようだった。

不思議だ。身体が風のように早く、石段を登っていった。
身体が勝手に運ばれていく。

「ヴァーユ神(風神)の計らいか?」

裏山の頂にも小さなテンプルがあったが、そこから少し離れた、町全体とクリシュナ川が見渡せるところへ導かれた。
大きな岩がごろごろしている場所だった。
言われた通り、そこで浄化・清めの祈祷を捧げた。
夕陽が、クリシュナ川にきらきら輝きながら、沈んでいく。美しい光景であった。


翌朝、再び参拝した後、空を見ると、不思議な雲を目にした。
ヴァーユ神の顕れだ!
そのように直観した。

ヴァーユ神の現れの雲

シュリ・カラハスティー


om namah shivaya
合掌
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om tat sat.

2016-12-21 Wed : 存在のバイブレーション(内なる音)


オーム それは 真理なり。


om mandala


全ては、それ なり。

あれも、それ。

これも、それ。


満ち足りし完全なり。

創造の根源。

絶対の存在。

自然法の源泉。愛の源泉。豊かさの源泉。


この真理なる 至高の光が、全てのものには浸透している。


絶対なる真我(プルシャ)の光。

ああ、全てに浸透している、真我の光よ。

吾、すべてにこの純粋な光を観る。

生命は、全き完全なる光の顕れなり。

全き完全なる光を宿す生命も、また完全なり。


神に愛されて生まれ出でた「ヒト」こそ、

完全なる光「ヒ」を「ト」どめ顕す存在。

麗しきものなり。


ヒトよ。

汝が内奥に、完全が在る。

完全なる調和を求めよ。

完全なる健康を欲せよ。

完全から、完全はあふれ出すものであるから。

これに疑いは無い。


om tat sat.

合掌







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空の元素を祀る、チダムバラムのナタラージャ寺院

2017-01-23 Mon : 聖地巡礼

チダムバラムのナタラージャ寺院 


南インド、タミルナードゥ州。東経79度41分、北緯11度23分に位置する。

アカーシャ(空の元素)・リンガムが祀られている寺院。

シヴァ神が、ターンダヴァのダンス(宇宙創造の踊り)を踊られているといわれる地。

踊る(ナタ)ラージャ(王)とは、シヴァ神の呼び名である。


また、ナーガ族の長であるアナンタが、聖者パタンジャリーの姿を取ってこの地に現れ、この重要な地でどのような祭祀を行うことが求められるのかを、正しく教義として残したとも言われている。

アカーシャは、この世の全てを成り立たたせている基盤であるから…。


ウチなる導きのコエは、アルナーチャラのアグニ・リンガム、シュリ・カラハスティのヴァーユ・リンガムの次に、チダムバラムのアカーシャ・リンガムに参拝し祈祷するようにと宣う。


Nataraja temple


火 → 風 → 空 → 水 → 地

この順序で回るようにと。

何故なのだろうか。


ガイドブックには、「本堂内は、他の寺院と同様に、ヒンドゥー教徒以外の立ち入りはできないが、外から中のプージャの様子を眺めることはできる。」と書かれていた。


白い巡礼用の衣服を身につけ、額に赤いティカとヴィブーティ(聖灰)を塗り、いざ参拝。

有り難いことに、すんなり本堂に入ることができ、プージャもしていただいた。

また、アカーシャ・リンガムも、近いところから拝ませていただいた。

にもかかわらず、多額の寄付を要求してきたりしなかった。

今までに、インドではないことだった。


そこでまず、寺院全体を回り、ごあいさつを済ませたあと、本堂の前に立ち、アカーシャ・リンガムの前で静かに祈祷をさせていただいた。


一人一人の心に平安(シャンティ)を。

世界に平安(シャンティ)を。

地球に平安(シャンティ)を。

om shantih shantih shantih.


観光的な要素が増える寺院が多い中で、ナタラージャ寺院は、平和的な穏やかな波動を湛えていた。

そして、謙虚に人々のために祈るということをし続けているブラーミン(神職)たちがいてくれたことが、大変嬉しかった。

どうか、これがこれからも続いてほしいと、心から祈念する。

om namah shivaya.


合掌






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水の元素を祀る、ジャムブケシュワール・テンプル

2017-03-30 Thu : 聖地巡礼

水の元素を祀る、アップー・リンガム


南インド、タミルナードゥ州にあるティルチィ、あるいは、ティルチラッパリと呼ばれる町。

ここに、ジャムブケシュワール・テンプルがあり、アップー・リンガム(水の元素のリンガム)が祀られている。

ひっそりとした、侘び寂びを観じるような寺院だった。

かつて、ここはジャンブーの森があり、その木の下で、クモとゾウがシヴァリンガを祀る方法を巡って争ったという話が伝わっている。

本殿の聖所は、水を湛えた床下にご神体のシヴァリンガが祀ってある場所。

ここで、祈祷を捧げた。20-30分位だったか。

その間、他のインド人参拝者も、ブラーミンも、誰も邪魔しなかった。

シヴァ神のご加護に違いない。

本来は、ヒンズー教徒以外入れないことになっているのだが。

水の元素を正しく司り給え。アップー・リンガムよ。

om namah shivaya...

aum tat sat.

合掌



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タンジャブールのファイヤー・ヨーギー

2017-04-21 Fri : インドの聖者
タンジャブールのファイヤー・ヨーギ-、
Rambhau Swami

チダムバラムの近郊にタンジャブールという古い町がある。
どういう訳か、この町にファイヤー・ヨーギーがいることを知った。
世界の平和のために火の儀式を行い、自分も供物として火に捧げるが、決して火傷もしないし、彼を包んでいる毛布も焼かれないという。

75歳の聖者、ファイヤー・ヨーギーの物語

ラムバウ・スワミにお会いしたいと思い、連絡を取ってみた。
神様の計らいが働いたのか、ありがたいことに会ってもらえることになった。

お会いしたときの問答。
Swami「なぜ、あなたは私に会いに来たのか?」
私「シヴァ神が、あなたに会うように仕向けてくださったと観じている。ホームページで、スワミは、世界の平和のために、また個々人にエンライトメントがもたらされることを祈って、火の儀式を捧げているということを知った。個々人にエンライトメントがもたらされるようにという祈りは、エンライトメントを得た人にこそ湧いてくる祈りであるので、スワミに会ってみたいと思った。」
それを聞いて、スワミはうむとうなずいた。

Swami「実は、2日後にちょうど自分のグルに捧げる火の儀式が行われる。良かったら来なさい。
普通は、私を知ってから何ヶ月も待たないと、火の儀式に参加することができない場合が多いのだが、あなたは大変運が良い。」
私「ありがたいことです。参加させていただきます。」

当日、火の儀式をお終いまで目撃させていただいた。
一体、何時間続いたのだろう。夜7時半頃までだっただろうか。
自分も座禅を組んで、半瞑想のような状態でずっと観ていた。
ラムバウ・スワミは、この儀式のために瞑想状態に入ってから、14時間位その状態を持続しているという。
fire celemoney 1

tri-agni like trishur
トリシュール(三鈷)のようなアグニ

mother-devine agni
マザーデヴァインのような様をとるアグニ神

翌日も、グルのためのアビシェーカの儀式が行われるので、それにも参加するように請われた。
実は、その日は別の場所へ移動するため、列車の予約を取ってあったのだが、面白いことにその列車は洪水のためにキャンセルになったことをその日の夕方に知った。
やはり、グル・アビシェーカに参加するように仕向けられたようだった。

guru puja
グル・プージャの朝。前日のホーマの火は、まだ煙をくすぶらせていた。

Swami「あなたの願望はなんですか?」
私「特にありません。」

あとで、スワミに呼ばれて、質問を受けた。
Swami「あなたが、火の儀式で観たことを述べてください。」
私「3つのアグニ(火)を観ました。サットヴァのアグニ、ラジャスのアグニ、タマスのアグニの3種です。
火の儀式のすべてのプロセスにおいて、スワミはサットヴァのアグニを培い育てていましたね。
ですから、火は、清められて透明で美しく、自分が今まで観た中で、最も透明な美しい火でした。
ディヴァイン・マザーの火のようでした。だから、スワミは焼かれることはないのですね。」

Swami「そのとおりだ。母の懐に抱かれる子供が心地よいように、私には火に抱かれることは心地よいのだ。」

この2日間の儀式に、幸運にも参加させていただき、たくさんの学びを頂いた。
また、スワミの指示で、彼のお弟子さんが次の旅の行程を世話してくれた。
途中の宿泊や夜行バスまで手配してくださった。
大変ありがたい計らいであった。しかも、お金を一切受け取らずに。

om namah shivaya.
合掌

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聖地「シュリンゲリ」を訪れる

2017-07-13 Thu : 聖地巡礼

南インドの聖地、シュリンゲリ


南インド、カルナータカ州の州都バンガロールからバスを乗り継いで、聖地シュリンゲリへ向かった。


8世紀にヒンズー教を立て直した、アディ・シャンカラという偉大な聖者は、シュリンゲリを訪れたとき、川の畔であまりの暑さにへばっていたカエルを、蛇が日陰を作って救済していたという光景を目にしたそうだ。

通常であればあり得ないことなので、ここは特別な地であるに違いないと観じ、ここに寺院を建設することにしたといわれている。


聖者アディ・シャンカラは、ヒンズー教の大切な神髄、聖なる教えの伝統を護る拠点を、東西南北に建立されたという。

南のシャンカラチャリアの座、シュリンゲリのシュリ・シャラダ・ピータム(カルナータカ州)。

東のシャンカラチャリアの座、プリーのジャガンナート寺院内(オリッサ州)。

西のシャンカラチャリアの座、ドワラカのカリカマート寺院(グチャラート州)。

北のシャンカラチャリアの座、バドリナート近くのジョシマート寺院(ウッタラカンド州)。


4つのうち、最初に建立されたシュリンゲリの寺院は、最も重要視される、ヒンズー教の伝統的な聖地とされているようだ。


shringeri temple gate 


靴を脱いで、寺の入り口から入ると、メインテンプルである、シュリ・シャラダムバ寺院。シュリ・ヴァイディヤシャンカラ&シュリ・トラナ・ガナパティ寺院等があった。


shringeri main temple 


寺の中に流れるトゥンガバドラ川が、聖なる川とされ、ここで身を清めて、人々はテンプル等を参拝する。

川には、たくさんの大きな鯉、あるいは鮒が、餌を求めて集まっていた。壮観であった。


tungabadri river 


トゥンガバドラ川を渡って、別の建物へ向かい、ここを護る聖者シャンカラチャリア、シュリ・ジャガッドグルの謁見をいただいた。当代のジャガッドグルと、向かって左側に次代のジャガッドグルが座っていらっしゃった。


翌日の早朝、聖なる川、トゥンガバドラ川のほとりに座を構え、世界の平和と人々の幸福のために、プージャを行った。

鯉たちが、不思議な位、たくさん集まり、荘厳なさまであった。


その後、聖者アディ・シャンカラもこの辺りを歩かれたのだろうと想いながら、寺院の周りにある森林を歩いていると、古い小さなシヴァ神の聖所があることに気がついた。


shiva shrine 


ふと惹かれて近づいていってみると、初老のプリーストが招くので、祈祷を受けることにした。

そして、プラサードとして、バナナと菓子をいただき、聖所を出て歩き出した。

不思議なことに、このプリーストは、自分たちへのプージャが終わるとすぐに、門を閉じてしまったが。


shiva shrine2 


すると、道の横に太陽の光線を浴びて、きらきら輝くコブラの抜け殻が目に付いた。

脱皮したばかりのようだった。目のガラスまで、脱皮されていた。


cobra skin 


コブラは、シヴァ神が首に巻き付けている、聖なる生き物でもある。

これは、きっとシヴァ神の祝福に違いないと確信し、すこし頂いていくことにした。

この聖地巡礼で、コブラに会えるような気がしていたので、「これだ」という観じだったのだ。


om namah shivaya.

合掌



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シヴァ神の讃歌(Shiva Stotram)

2017-10-05 Thu : 存在のバイブレーション(内なる音)

あるとき、「貴方が観じるシヴァ神を、日本語で表現してみなさい。」と後押しされたように観じられた。

そこで出来上がったのが、この讃歌だ。



シヴァ神の讃歌(Shiva Stortram)


om 根源なる意識よ。

om bijam.

あらゆる想いの種は 展開されて 万物の姿形となりゆく。

根源なる意識は 宇宙の全てに浸透し、万物は 内に純なる光を秘める。


om シヴァ神という御名により あらゆる創造プロセスを担う 全能なるお方よ。

ミチミチとせし純粋の 根源なる『ム』と、この世のつなぎ目に始まりを置き、

1000の御名で呼ばれるごとく あらゆるエネルギーを現象化なさるお方よ。

カイラス山の頂きに鎮座して 生きとし生ける全てものに祝福を降りそそいでくださる、マハーデーヴァよ。

om namah shivaya. om namah shivaya. om namah shivaya.



om  途切れることのない「不滅なる意識」の顕現者よ。

始めなく終わりのない、光輝く光の流れ(ジョーティル・リンガ)よ。  

無明を滅ぼし、無知から解放してくださる、不滅なるお方よ。

om アイの泉 歓びの泉 創造の源泉 至福のウミよ。

不変不滅なる流れが 刹那刹那に湧き上がり 途切れることなくあふれ出し、全てのイノチを潤している…。

この究極なる真理に 目覚めるように導いてくださる 全知なるお方よ。


om 至福のウミより湧きいずる 聖なる水を降りそそぎ、

浄化を起こし 甘露となりて
一つ一つの細胞を 光り輝かせてくださる 永遠なる実在よ。

究極の真理の具現者として、時に厳しく時に優しく、あらゆる進化を助けてくださるお方よ。

jai shiva shankara. jai shiva shankara. jai shiva shankara.



無知が取り払われ、ウチなる光明が自ら輝き出す。

老いや死のとらわれから解放(解脱)され、永遠不滅の意識を生きる。

永遠不滅なる意識が 『我』であることに疑いはなく、

『私は誰か』という問いからも解放され、真の自由の体現者となる。

この世においては転変が常であり、絶対界においては不変不滅である。

これらの真理を知らしめてくださる、根源なる意識よ。




真我の光を受けとるアートマンは、魂という馬車に乗り、進化の道のりを歩む。

御者である「知性(ブッディ)」は、手綱である「意志(マナス)」を使いこなし、

馬である「感覚器官(インドリア)」を制御して、アートマンは進む。


アートマン(個我)のマナスが、パラマートマン(神我・超我)のマナスへと変容されたとき、

それは、カイヴァリヤ(解脱)の状態だ。

この仕組み・メカニズムを知らしめてくださる、普遍なる真理の具現者よ。



『私から離れるな』と、力強い清さで抱いてくださった、愛しいお方よ。

『これは私だ』と語りかけ、一体であることを支えてくださった、慈悲深いお方よ。



今まさに、この空(身)に在れますお方は誰か。

空洞の竹筒を吹き抜ける風は、存在からあふれ出てくるもの。

即ち祝福、それしかない。

om tat sat


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