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ジーヴァンムクタ(生前解脱者)

2018-08-24 Fri : 真我の探求

前記事で、聖者シャンカラを紹介した。

彼は、「生前解脱」、すなわち、生きている間に魂の救済・解放は達成できると説いた。

霊的探求の道において達成できる、最終ゴールである。


ゴールについて詳しく知ることは、道を求める探求者の助けとなる。

スワミ・シヴァーナンダ大師がその著書「ブリス・デヴァイン」に書かれたエッセイを訳して紹介しよう。

必要とする人に役立つことを祈ります。 


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ジーヴァンムクタ(生前解脱者)とは


ジーヴァンムクタとは、完全解放された聖者のことだ。彼は生きている間に解放されたのだ。彼はこの世に生きているが、この世に属していない。彼は常に、至高の真我の永遠の至福にふける。彼は、イーシュヴァラ(全能の神の呼び名)、その人である。彼は、地上に存在する一人の神である。

 

ジーヴァンムクタ、あるいは完全開花した賢者とは、純粋な愛、慈悲心、慈愛、この上ない優しさ、隠れた力と強さに満ちている。愛と光沢が、彼の光り輝く目を通して輝く。

 

ジーヴァンムクタは、わずかな利己的関心事も持たず、いかなる状況でも心配、困難、トラブル、苦難、悲しみ、不安が全くない。彼の体に関わる痛み等が彼の顔に表現されているときでも、彼の心はそれと正反対で、決してそれにもがいていない。

彼は、気分の奴隷でない; 彼は、絶えず明朗で、平和だ。

彼の高次の素晴らしさは、完全に開花していることだ; 全ての神の特質は、彼の中に完全に呼び覚まされている。彼の中にあった全ての弱点や制限は、内なる聖なる炎によって焼かれた。

彼は自身の内なる無垢の栄光を、神意識の重要な特質を、自身で祀る。

彼は、至る所で平和と歓びを放散している。

 

真我を実現したヨーギーの本当の偉大さは、言葉に言い表すことはできない。

彼の目は、澄み渡り、安定している。彼の行動は完璧で、神聖だ。彼のスピーチは甘く、短い。そして、人を元気づけ、印象的だ。

彼の歩きぶりは高潔だ。彼は触れるものを浄化をする; 見た目にも慈悲深い。そして、ジェスチャーは啓蒙的である。彼は全知だ; 彼には、直観的な超越的知識と、万物や人々のその核心に対する明瞭な洞察がある。

あなたは、彼の前にいると、深い感性の平安と調和、すばらしい高揚感とインスピレーションを経験するだろう。

 

生前解脱者のしるし


ジーヴァンムクタまたは、完全開花した聖者は、エゴイズム、疑い、恐れ、嘆き悲しみから、完全に解放されている。それらの4つは、その人が完全さを達成したことを示唆する重要なしるしである。

 

ジーヴァンムクタは、完全な満足、揺るぎない心の平安、深い永続する歓びと至福、超感覚的な霊性の知識があり、修行者のあらゆる種類の疑念を取り除く能力を持つ。彼のそばにいるとき、疑いは消えてしまう。


ジーヴァンムクタは、体の欲求にさえ注意を払わない。彼は、死を恐れない。彼は生きようとする願望もない。マーヤ、あるいはプラクリティ(根本自性)は、従順で親切な彼の看護婦だ。

プラクリティは、注意深く彼に付き添う。ボディが必要とする物は、それ自身でやって来る。プラクリティは、彼のために前もってすべてを手配する。これは、彼女の仕事なのだ。

 

バランスの取れた心、平等なビジョン、快楽と苦痛、非難と称賛、熱さと寒さ、成功と失敗のような、正反対の一組に対する無関心、― これらは、ジーヴァンムクタのしるしである。

ジーヴァンムクタは、自然のいかなる変わった出来事にも驚かない。彼らは、決してカッとなることが無い。あるいは怒りの炎が、上方に燃え上がることはない。

ジーヴァンムクタは、いかなる条件下でも動揺しない。騒乱のまっただ中においても迷いがない。

 

生前解脱者の二重の意識


水の中に首まで浸かって立っている人は、二重の経験をする。彼の頭は太陽にさらされている。彼は、熱と寒さの両方を経験する。そのようなことが、ジーヴァンムクタの経験なのだ。彼は二つの要素の意識を持つ。

彼は、ブラフマン(創造原理)の至福を楽しむ。彼は、この世界の経験もする。彼は、二つの言語を知っている人のようである。

 

ちょうど苦い芳香性のアギやオニオンが保存されたポットが、何回か洗浄されたにもかかわらず、ある程度の匂いを発するように、無知の小さな痕跡が、賢者の心にもわずかであるが残っている。ジーヴァンムクタは、サンスカーラ(過去の印象)という形で、体の意識を持つ。それが、彼が飲食する理由だ。低次の欲求を伴う本能的なマインドは破壊されているが、調和的なマインドは、ジーヴァンムクタにおいて消滅していない。

マインドという道具なしに、彼はどうやってこの世界と関係することができるだろうか?

 

世俗的な人と完全開花した聖者との違い


現象的宇宙は、ジーヴァンムクタのビジョンから消え去っていない。ジーヴァンムクタは、世界を心の中の夢のように観ている。水の幻影的性質を理解したあとでも蜃気楼が現れるように、同様に、真我実現を達成したあとでも、この世の幻影的性質を明確に理解したあとでも、この世は、ジーヴァンムクタのために現れる。

しかし、蜃気楼の性質を理解した人が、飲み水を求めて蜃気楼を追いかけることがないように、同様に、ジーヴァンムクタは、世界が彼に現れるけれども、世俗的な人々のように感覚器官が喜ぶ対象物を追い求めない。これが、世俗的な人と完全開花した聖者との違いだ。

 

ジーヴァンムクタがブラフマン(創造原理)、栄光の中の栄光、魂の中の魂に没入しているとき、動くこと(活動すること)は可能ではない。しかし、プララブダ・カルマ(現世生まれてくる原因となったカルマ)とヴィクシェーパ・シャクティ(投影力)の力によって、ブラフマン意識から下り戻るとき、苦しみ悩む魂の叫びに対して愛を注ぎ込む。

彼は、非常に光り輝いていて、慈悲深い。彼は、慈悲と慈愛と平安の大海だ、仏陀やジーザスのように。


広大無辺なビジョン


ジーヴァンムクタは、どこにでもどんな物にも、一つの実在または神を観る。

彼にとって悪者と聖者、金と石、名誉と不名誉の区別はない。実際、全てが自分自身だと観じる。ヘビ、サソリ、虎、熊、ライオンは、彼自身の目、鼻、耳、手、足と同じような部分であると観じるのだ。彼は、花、エーテル、太陽、海、山、空と一つなのだ。

彼は、広大無辺なビジョンと広大無辺な感覚を持つ。

 

三昧の賢者と世の中と関わる賢者


ジーヴァンムクタ、または聖者の暮らし方は、様々だ。ある聖者は、王様のように暮らす。王であったバギラタという聖者は、このような暮らしをした。別の聖者は、乞食のような暮らしをする。ある聖者は、常に瞑想に浸っている。彼は活動しない。話すこともしない。常に隠遁生活をしている。ジャダ・バラタという聖者は、このような暮らしをした。

別の聖者は、忙しく混雑した都会に暮らす。彼は、自身を他者への奉仕に投げ込む。彼は人々と話す。彼は、講義をしたり、宗教的な教室を開いたり、本を書いたり、様々なことをする。聖シャンカラは、このような暮らしをした。

これは、プララブダ・カルマ(現世生まれてくる原因となったカルマ)によるのだ。どの聖者も、彼独自のプララブダ・カルマを持っている。もし全ての聖者が同じ種類の暮らしをし、同じ種類のプララブダ・カルマを持っていたら、この世界は牢獄のようだろう。創造の現れにおいて多様であることが、プラクリティ(根本自性)の本質なのだ。

 

世の中のために活動しようという願望を持ち、この世界で奉仕をするのは、世の中と関わる(ビャーヴァハーラ)賢者。世界から完全に隠遁している賢者は、三昧(サマーディ)の賢者である。

それら2タイプの聖者において、得ている知識は同じだ。しかし、三昧の賢者は、世の中と関わる賢者より、もっと至福を楽しむ。三昧の賢者は、常時ブラフマン意識に没入している人である。彼は名前や形を観ない。この世界は、彼にとって全く消え去っている。彼は、活動することが全くできない。彼はムズブ(最高のカテゴリーの沈黙の聖者)だ。彼はパラマハンサ(神を体験し、実在と非実在の識別を知る者に与えられる称号。意味は偉大な白鳥。)だ。


世の中と関わる賢者は、指を切ったとき痛みを経験する。

しかし三昧の賢者は、足を切断されたとしても、少しも痛みを経験しないだろう。ムルタンのシャムス・タブリエツ(ペルシャのイスラム教スーフィー)は、上記の記述の真実性を証明するような生き方をした例だろう。彼は、皮を剥がされたとき、笑って「アナルハク、アナルハク。」と言った。'アナルハクとは、‘私は、彼(神、創造原理)だ’という意味で、ヒンズー教の‘ソーハム’と一致する。

 

世の中と関わる賢者は、名前や形を観る。

世の中と関わる賢者は、これはヴィシュタ(ビジョン)だ、これは白檀だとわかる; これは愚か者、これは知性の高い人; これは善人、これは悪党、これは正直者と。

しかし、彼は感情に影響されていない。彼は、成功したとき有頂天にならず、失敗したとき落ち込むこともない。彼は、正直者を愛するのでもなく、悪党を憎むのでもない。この意味において、彼はサーマ・ドリシュティ(平等に観る者)、または平等なビジョンの持ち主なのだ。

 

世の中と関わる賢者のケースにおいて、活動しようという欲求は、彼のプララブダ・カルマによるものだ。大工が自分の道具を使うように、彼は彼のボディとマインドを道具として使う。

活動している間、彼は一秒たりともブラフマン意識を失うことはない。彼は、意識の本来の姿(チャイタニア・スヴァルーパ)または純粋意識に、常に確立されている。

 

世の中と関わる賢者は、この世全体を彼自身の内側に観る。何も外側に見ない。あなた方は外側に見ている訳だが。

彼は、神聖なる眼(霊眼)、または全知の眼を通して観る。物理的な目を通してではない。賢者は、力強いレンズ、すなわちアートマン(真我)の眼の助けを借りて、全ての創造の詳細と共に全世界を観る。彼は、人のアストラル体、サンスカーラ(過去の印象)と共にある原因体(魂)、プラーナのオーラ、サイキックオーラ、磁力のオーラなどを観ている。

実務的な知力を持つ世俗的な人にとって、賢者が活動しているときに、どのように物理的宇宙を観ているかを精神的に描写することは大変困難である。

 

ジーヴァンムクタは、どのように生活し活動するか


ジーヴァンムクタは、気まぐれな人間ではない。彼はシャーストラ(ヒンズー教の教義)や社会の規範に束縛されていない。がそれでも、ダルマ(自然法)から外れることはない。

彼が為すことは全て、神聖な教義や聖典に厳しく従っているだろう。彼は、自発的に良いことだけを為す。

熟練したダンサーは、間違ったステップを決して踏まない。ジーヴァンムクタが活動するとき、それと同様である。

 

聖者は、努力なく、間に代理人を置かず、エゴイズムや愛着や欲求なく、活動する。ちょうど子供のように、彼の行動は善でもなく悪でもない。

ジーヴァンムクタは、子供のように行動する。善悪の感覚は、彼の中では自然なことで、宗教的教義に従っているわけではない。

彼は全てのエゴイズムを破壊してしまった。彼はカルマを超越しているし、カルマは彼に触れることができない。彼は、世界を教育するために活動するだろうし、あるいは禁止行為を控えるだろう。

 

ジーヴァンムクタは、世の中の批判を気にしない。彼は襲われたときでさえ、冷静なマインドを保つ。彼は、彼を迫害する人を祝福する。彼は、どこにでも彼自身(真我)だけを観るのだ。

彼のしるし、または特徴は、内側の精神状態だ。それは他者によって認識されたり、見つけられたりが不可能だ。

神が、神の仕事のために彼を利用するのだ。

 

身体的な裸と精神的な裸


ブラフマン意識を得た賢者、またはジーヴァンムクタは、天才である必要はない。彼は雄弁家、話し手、講師や教授である必要はない。

しかし彼は、穏やかで、神聖で、静かである。彼は無口で、沈黙する。彼の沈黙は、すぐれた雄弁さだ。彼は、神聖なる智慧と直観的な知識を持つ。彼の前では、全ての疑いが解かれる。

家庭を持つ人たちは、ジーヴァンムクタの性質を決める際に、間違った判断をする。彼らは、ジーヴァンムクタの外的状況だけを考慮するのだ。教養のある人々でさえ、この事に関しては間違いをしでかす。


サドゥ(世俗を放棄した霊性修行者)は、肉体的に裸かもしれない。彼は何も持っていないかもしれない。彼は、物乞いするボウルの代わりに自分の手を使ったり、木の下で暮らしたりしているかもしれない。彼は森に住んでいるかもしれない。それでも、彼は極悪人かもしれないのだ。彼は、内側にも外側にも愛着を持った、世俗的な人間かもしれない。彼は、アヘン吸飲用の8本の食物を得たとき、喜んで踊り出すかもしれない。彼のマインドは、破壊的で、障害物だらけかもしれないのだ。

一方で、町や都会の雑踏で暮らすが、偉大な紳士の人生を送る人かもしれない。ファッショナブルな洋服を着ているかもしれない。美味いものを食べているかもしれない。それでも、彼は何かに対する愛着や熱望が全くないかもしれないのだ。

聖ラーマヌージャは、贅沢の中に暮らした。真我を実現した人は、象や馬、さらに全ての国王の必要物を持っていても、外的な対象物によって全く影響受けることがないという事例だ。

彼らは、多種多様な活動の中においても、常に真理を研鑽し、本来の姿に定まっている。これは、統合された発展だ。これは、バガヴァット・ギーターの主旨であり、クリシュナ神の中心的な教えである。

 

求められているのは、精神的な裸の状態、すなわち、何も無い空っぽの状態だ。叡智は、純粋な内的状態だ。外的なしるしは、確かな基準ではないのだ。

 

賢者の在り方は、不可思議である。ジーヴァンムクタだけが、ジーヴァンムクタを知ることができる。

バガヴァット・ギーターや様々な本の中において、賢者に関する説明は、全く不適切、不完全、不十分だ。彼の状態は、限定されたマインドによって決して想像できるものではなく、有限な言葉によって説明できるものではない。彼は、自身の無垢なる栄光で輝いている。

 

彼は、ある時は全てを知る人(サルヴァジニャー)のような姿を取り、ある時は無知な人(アジニャーニ)のような姿を取る。彼は、いつブラフマン意識を保持する者として行動するか、いつ馬鹿者のようにふるまうかを知っているのだ。だから、彼を判断してはいけない。

あなたが適切な在り方で、つまり信頼と献身、霊的な渇き(求め)を持って彼に接するならば、かれは最高の知識をあなたに授けるだろう。もしあなたが悪い動機を持って彼に近づくならば、彼は狂った人のようにふるまい、あなたはだまされるかもしれない。その時のあなたの損失は、甚大だ。

 

世界への祝福


ジーヴァンムクタは、世界の維持者だ。彼は、永遠のインスピレーションの源だ。

彼は、退廃していない人々に、神の恩寵が送られるときの具体的な管(チューブ)である。

 

咲いて香りを放ち、周りの空気を浄化する花のように、サダーシヴァ・ブラフマン(高名なヨーギー)、ヤジニャヴァルキャ(ウパニシャッド最大の聖仙)のような偉大な魂は、人々のハートを歓ばせるために、そして彼らを永遠不滅の完全性へと導くために、この世に飛び込んでくるのである。

 

ジーヴァンムクタは、霊的エネルギーの発電所だ。彼は、世界の異なる隅々に、霊的な電流を放射している。彼の前に座ってごらん。あなたの疑念は、疑念自身によってクリアにされるだろう。彼の前では、あなたは喜びや平安の、独特な胸の高鳴りを感じることだろう。

 

ジーヴァンムクタは、知らされていない聖水のように、ただ見られるだけで、ただ触れられるだけで、また彼の名前が敬愛を持って唱えられることで、他者を浄化する。

ある時は、彼は気づかれないままだ。ある時は、幸福を求める人々の明るみに出る。彼は、信心深い献身者から提供された食物を食べるし、彼らの過去と将来の悪や不純物を焼き払う。

 

ジーヴァンムクタ、または聖者は、魂の知識の最終的な源だ。ジーヴァンムクタと一緒のサットサンガ(共に在ること)は、たった1分であろうと、王国の統治者の地位よりはるかに良い。

彼のその存在は、わくわくさせられるし、元気づけられる。

彼のそばにいることを求め、そして進化せよ。信頼と献身を持って、彼に奉仕せよ。

 

聖者は永遠に生きる


聖者は永遠に生きる。彼は、不変不滅の生命を達成した。切望が彼を拷問にかけることはない。罪が彼を穢すことはない。生死の輪廻は彼に触れることはない。痛みや苦難が彼を苦悩させることはない。

 

ジーヴァンムクタは、いつでもどこでも肉体を離れる可能性がある。落ち葉や木の実が、木自体に影響を及ぼさないように、同じように、肉体を落とすことは、アートマン(真我)に影響を及ぼさない。木のように生き残る。

彼のプラーナは、魂が抜け出すときに肉体から他へ分かれていかない。プラーナは、彼のプララブダ・カルマ(すでに実を結び始めた過去の行動の結果)が終了したあと、ブラフマン(創造原理)に溶け込む。彼は、次の誕生から解放されている(再び生まれてくる原因が消滅している)。

 

ジーヴァンムクタは、マインドと物質の拘束から解放されている。彼は全く自由で、完全で、独立している。彼は憎悪、欲望、気がかり、不安、心配から完全に解放されている。

至福の状態、または最終的な解放の状態は、誰でもきっと好きだ。それは、生命の最終ゴールだ。それは、全ての人間の大望の終了だ。

 

生前解脱(ジーヴァンムクティ)という状態は、存在の究極の目的である。この状態には、満ち満ちとした充満がある。全ての欲求は燃やされてしまった。

それは、絶対的な満足の充満した状態だ。これより偉大な利得はない。これより偉大な至福はない。これより偉大な叡智はない。

 

永遠の至福の丘の頂において、ジーヴァンムクタ、または完全開花したヨーギーを、あなたは見ることができる。彼は、集中と絶え間ない苦闘を通して、途方もない高みを登ったのだ。

彼は厳しく厳格な霊性修行を行った。彼は深遠なニディヤーサナ(瞑想)を行った。彼は、眠れない夜を幾度も過ごした。彼は、途中経過の不完全な状態において、長い間、厳しい自己観察と無意識的にする行動(条件付けられた行動)を見張り続けたのだ。

彼は、忍耐と努力を貫いた。彼はたくさんの障害を打破したのだ。彼は、絶望、暗やみ、落ち込みを克服したのだ。

彼は、今や世界における、灯台の光だ。

あなたと同様に、彼が過去において無常のサンサーラ(輪廻)の中で、のたうち回っていたことを、覚えていなさい。

あなたも、その頂に登ることができる。あなたがそうしたいと望む場合に限るが。


om namah shivaya.

om tat sat.

合掌

アートマ・シャトカム(真我六経文) 

2018-07-17 Tue : 真我の探求
「あなたは、誰か?」

大聖者アーディ・シャンカラが8歳の時、正式な出家者となるための導師(グル)を求めて、ナルマダ川のそばを彷徨っていたとき、リシ・ゴヴィンダ・バガヴァットパーダに出会った。
リシ・ゴヴィンダが「あなたは、誰か?」と尋ねると、シャンカラは、次のように答えたという。

大聖者アーディ・シャンカラは、インドの思想家・哲学者であり、ヒンドゥ教の教えの精髄を復興させ、不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダンタ)、梵我一如思想を提唱。
生前解脱が可能であることを説く。真理の正しい知識を得ることによって。

諸説あるが、788年生まれ、820年 32歳没。
ヒマラヤ・ケダルナートに霊廟がある。

両親に長く子供がなく、子供を授かるようにお祈りをしていたら、神様が夢に出来てきて、頭脳明晰だが短命な子供一人と、平凡だがたくさんの子供を得るのと、どちらが良いかと尋ねたという。
両親は、頭脳明晰な一人の子供を選んだので、シャンカラが生まれ、7歳にしてヴェーダの学習を習得したと言われている。
shankaracharya_new.jpg 

シャンカラの答えは、経文(シュローカ)となり、広く知れ渡るようになった。

真我六経文アートマ・シャトカム
(または、解脱六経文ニルヴァーナ・シャトカム) 日本語訳

私は、意志や思考ではない。知性ではない。
自我でもない。心(ハート)でもない。
聴覚 触覚ではなく、視覚 味覚 嗅覚器官でもない。
天空でも 大地でもなく、火でも 風でもない。
永遠の至福意識。形なき純粋の実在、それが私だ。 
|1|

プラーナの力(氣力)でなく、体の動きを司る5つの風エネルギーでもない。
7つの体の組織でなく、真我を被う5つの鞘でもない。
発声器官 手 足でなく、排泄器官 生殖器官でもない。
永遠の至福意識。形なき純粋の実在、それが私だ。  
|2|

※5つの風エネルギー:プラーナ、アパーナ、ヴィヤーナ、サマーナ、ウダーナ。
※7つの体の組織:ラサ(栄養液)、ラクタ(血液)、マーンサ(筋肉組織)、メーダ(脂肪組織)、アスティー(骨組織)、マッジャー(骨髄・神経組織)、シュクラ(精液・生殖器官)。
※5つの鞘:食物鞘、プラーナ鞘、マナス鞘、知性鞘、至福鞘。

愛着なく 嫌悪なく、貪欲でなく、錯覚 誤認もない。
プライドなく、他をうらやむこともない。
為すべき義務(ダルマ)なく、金銭欲なく、欲望なく、解脱願望もない。
永遠の至福意識。形なき純粋の実在、それが私だ。  
|3|

高徳でも 不徳でもない。
快 不快にとらわれることなく、喜怒哀楽にも染まらない。
マントラや聖地、ヴェーダ文献や加持祈祷を必要としない。
喜びの行為者でなく、喜びのプロセスでなく、喜びの対象物でもない。
永遠の至福意識。形なき純粋の実在、それが私だ。  
|4|

私は、死を恐れない。なぜなら、死はないから。
生まれによる階級もない。
真実の自己から離れることなく、この実存に疑いはない。
誕生を基盤とした識別も持たないゆえ、
父母なく、誕生もない。
血縁関係はなく、親友関係はなく、師弟関係もない。
永遠の至福意識。形なき純粋の実在、それが私だ。  
|5|

私は、二元性を越えている。
属性を持たず、形を持たない。
全能であり、偏在であり、全ての人の感覚器官は私の現れである。
この世にも 解脱にも執着はなく、願望も生じない。
永遠の至福意識。形なき純粋の実在、それが私だ。  
|6|


<サンスクリット>
      manobuddhyahaṅkāra cittāni nāhaṃ
      na ca śrotrajihve na ca ghrāṇanetre
      na ca vyoma bhūmir na tejo na vāyuḥ
      cidānandarūpaḥ śivo'ham śivo'ham |1|

マノー ブッディヤーハンカーラ チッターニ ナーハム
ナ チャ シュロートラ ジフヴェー ナ チャ グラーナネートレ
ナ チャ ヴィヨーマ ブーミル ナ テージョー ナ ヴァーユフ
チダーナンダルーパハ シヴォーハム シヴォーハム 

      na ca prāṇasaṅjño na vai pañcavāyuḥ
      na vā saptadhātur na vā pañcakośaḥ
      na vākpāṇipādau na copasthapāyu
      cidānandarūpaḥ śivo'ham śivo'ham |2|

ナチャ プラーナサンジュニョー ナヴァイ パンチャヴァーユフ
ナヴァー サプタダートゥル ナヴァー パンチャコーシャハ
ナ ヴァークパーニパーダゥ ナ チョーパスタパーユ
チダーナンダルーパハ シヴォーハム シヴォーハム 

      na me dveṣarāgau na me lobhamohau
      mado naiva me naiva mātsaryabhāvaḥ
      na dharmo na cārtho na kāmo na mokṣaḥ
      cidānandarūpaḥ śivo'ham śivo'ham |3|
      
ナメー ドヴェーシャラーガウ ナメー ローバモーハウ
マドー ナイヴァ メー ナイヴァ マーツァルヤバーヴァハ
ナ ダルモー ナ チャールトー ナ カーモー ナ モークシャハ
チダーナンダルーパハ シヴォーハム シヴォーハム 

      na puṇyaṃ na pāpaṃ na saukhyaṃ na duhkhaṃ
      na mantro na tīrthaṃ na vedā na yajña
      ahaṃ bhojanaṃ naiva bhojyaṃ na bhoktā
      cidānandarūpaḥ śivo'ham śivo'ham  |4|

ナ プンニャム ナ パーパム ナ サウキャム ナ ドゥッカム
ナ マントロー ナ ティールタム ナ ヴェーダー ナ ヤジュニャ
アハム ボージャナム ナイヴァ ボージャム ナ ボークター
チダーナンダルーパハ シヴォーハム シヴォーハム

      na me mṛtyuśaṅkā na me jātibhedaḥ
      pitā naiva me naiva mātā na janmaḥ
      na bandhur na mitraṃ gurunaiva śiṣyaḥ
      cidānandarūpaḥ śivo'ham śivo'ham  |5|

ナメー ムルティユシャンカー ナメー ジャーティベーダハ
ピター ナイヴァ メー ナイヴァ マーター ナ ジャンマハ
ナ バンドゥル ナ ミトラム グル ナイヴァ シィシャハ
チダーナンダルーパハ シヴォーハム シヴォーハム

      ahaṃ nirvikalpo nirākāra rūpo
      vibhutvā ca sarvatra sarvendriyāṇaṃ
      na cāsangata naiva muktir na meyaḥ
      cidānandarūpaḥ śivo'ham śivo'ham  |6|

アハム ニヴィカルポー ニラーカーラ ルーポー
ヴィブトヴァ チャ サルヴァトラ サルヴェーンドリヤーナム
ナ チャーサンガタ ナイヴァ ムクティル ナ メーヤハ
チダーナンダルーパハ シヴォーハム シヴォーハム


ニルヴァーナ・シャトカム(youtube)
https://www.youtube.com/watch?v=7FZFvFWztOA

日本語もサンスクリットも、例え意味がわからなくても、正しく発音することによって、音が効果を生み出す力がある言語である。

毎日唱えてみる功徳は、計り知れない…。
合掌
om namah shivaya.


プラーナ・マヤ・コーシャの持つ力

2013-12-02 Mon : 真我の探求
プラーナ・マヤ・コーシャ

真我(プルシャ)は、5つの鞘に被われている。

1番目は、至福の鞘。
2番目は、ブッディ(知性・理知)の鞘。
3番目は、マナス(意思)の鞘。
4番目は、プラーナ(気)でできた鞘。
5番目は、食物でできた鞘。

プラーナーヤーマ(プラーナをコントロールする行法)や気功法、武道などの達人は、プラーナ・マヤ・コーシャが、特に活性している。

日本でも、滝行や火渡り行などの荒行を成し遂げたり、
気合いで相手を倒したり、
正月の冷たい海で寒中水泳を平然とできたり…。

インドにも、火に焼かれても無傷のヨーギがいたり、
様々な荒行や苦行などがある。

どんなメカニズムによって可能になるのか、はなはだ不思議であった。
だが、実際に滝行を体験したことによって、その一端を実感できた。


神道式の滝行では、禊行の一つとして滝に打たれる。
祝詞を唱え、大きな声で神の名を呼び、神様を招き入れ、
無心になって全てを神にゆだね、呼吸を調え、
気合いをぎゅっと入れて、冷たい滝に打たれる。

この一連の行を、指導されるままに素直に行じてみた。
すると、何の困難もなく、10mの滝の水圧も冷たさも感じることなく、
滝行を遂行できていた。

「行」であるので、神を招き入れ、神に明け渡し、強い気合いを入れる。
その結果、まるで光のシールドが張られて、護られていたようだった。


なるほど。
あのとき、マナス(意思)の指令の下に、ブッディ(知性)が正しい判断を行い、
プラーナ・マーヤ・コーシャは最高の状態にまで活性されて、
光のシールドとなって、外の刺激から保護していたのかと。

ショック療法のように、火事場の底力が発揮されたお陰で、
体が弱かった故に、今までどうしても体得できなかったことが、体得できた。
なんとありがたいことか。
いただきし 神の恩寵 あればこそ…。

いつでも自在に発揮できるようになるには、訓練は必須であるが。


ヒトには、未知なる力が秘められている。

om namah sivaya






カルマの見抜き方

2013-11-02 Sat : 真我の探求
カルマを見抜く。 
過去のすべての行為は、善い行為・悪い行為も「因」となって、いつか必ず、その行為者に「果報」としてやって来る。 
この因果の種子は、チッタ(心)に記憶されており、機の熟した時に、発芽して実を結ぶといわれている。

 カルマは、3種あるという。 
プラーラブダ・カルマ:今世持ってきたカルマ。 
アーガミー・カルマ:現世で生み出しているカルマ。 
サンチタ・カルマ:カルマの大袋の中で、未だ眠ったままのカルマ(種子の状態)。 

 何かのアクション(他からやってきた刺激)に対して、ほぼ自動的にリアクションをしている自分に気づくことはないだろうか。
理由なく拒否反応が現れたり、イライラが現れたり、許せないと感じたり、
どうしても嫌悪感や不快を感じたり…。 
あるいは、「どうしてもこうしたい。」という選択肢以外を思い浮かべることができなかったり…。

それによって、トラブルに巻き込まれたりしてるときは、カルマを解消するチャンスがやってきたと喜びを持って捉え、
「その原因は何か」を掘り下げるのが、最善だ。 

過去に自分が経験した、何かの感情(怒り、悲しみ、寂しさ、特定の喜び等)の印象が、根強く心に刻まれて残っていることが原因である場合が多い。
見たくないものかもしれないが、しっかり根本原因まで掘り下げよう。
すると、その気づきによって、カルマは解消される。

つまり、自分がつくった「条件付け」、「束縛」から解放される。
より自由になれる。
自分が条件付けた呪縛を、一つ一つはがし、
もっと自由になろう。

あらゆる条件付けが外れると、
常に、他者の『喜びを増す人』に、
『幸福を増す人』になれる。 

歓びを持って、このような選択を自らする人。
本当の自由人である。

善い行為は、良いカルマを創る。
善いカルマの縦糸に沿って、神々の祝福や恩寵はやってくる。

今、ここ、この瞬間。
自分の手の内にあるのは、これだけだ。

過去のカルマを解消するのも、今。
未来の善き種を蒔くのも、今。
(光明を得たら、サンチタ・カルマでさえ、聖なる火に焼かれて発芽しなくなる。)

だから、今に集中する。
今に集中して、今を創る。
未来は、自分次第だ。
「創造する意思」は、自分からスタートする。 

祝福よ、祝福よ、祝福よ。
om namah shivaya.
合掌






自分のルーツ

2013-09-01 Sun : 真我の探求
自分のルーツ

霊体とか、知性体といわれたり、魂という言われ方をしている、
個別性を持った、個々の宇宙知性が在る。

魂の役目を持っていたり、生まれ変わりを経験する本体である。

物質でできた肉体から抜け出すとき、鼻から吸った最後の一息によって、
原因体は微細体と合体して出て行くのだという。

すなわち、生まれ変わるときは、今まで使っていたマナス(マインド)や微細な感覚器官、
ブッディ(理性)、アハンカーラ(自我)、チッタ(心)もそのまま持って生まれてくる。

チッタには、過去生のカルマや残存印象(サンスカーラ)などが記憶として記録されているので、
これらは機が熟したときに、本人の経験としてやってくる。

良いカルマも、悪いカルマも、
その宇宙知性が、進化成長するための
貴重な機会を提供してくれるものである。
すなわち、必要、必然、最善なのである。


高徳の魂や、高い知性を達成していた宇宙知性は、
磨かれたマナスやブッディ、アハンカーラ、チッタを持っているので、
その状態を維持して再び生まれてくる。

なぜなら、人として生まれてくる最終ゴールは、真我との合一であるから。

魂の成熟度により、今世に最終ゴールできるのか、
はたまた、未来の生で達成されるのか、
種々色々であろう。

良い悪いはない。

自分が今世持ってきた「想い」を実現することが、その人の進化成長を助けるのだから。

全ての人が、自己を成就することができますようにと、
心からお祈りしております。

合掌






真我を被うもの(2)

2013-08-01 Thu : 真我の探求
真我を被うものとは。

原因体(アーナンダ・マヤ鞘)、微細体(知性マヤ鞘とマナス・マヤ鞘)、物質体(プラーナ・マヤ鞘と食物マヤ鞘)があることを書いた。

それぞれの体(鞘)は、次元が違う。
物質次元の被いは、粗雑な物質元素でできている体と、
微細物質、即ちプラーナという生命電気エネルギーでできている体だ。
気の流れと表現されるものとほぼ同じであり、丹田と密接に関係している。

日本人は、丹田を鍛えることを大事にしてきた民族だ。
プラーナ(気)に熟達した方々が多いことからも、うかがい知ることができる。
例えば、日本の伝統的な生活スタイルは、腰椎4番と5番を強めるような床に座る生活だった。
武士も、腹ができていた。

微細体は、物質次元ではない。
日本では、霊体とか観念体という言い方をしているものが、これに近いだろうか。

休みなく活動しているので、その働きは、知ることができる。
5感覚器官からやってきた情報をマナスが受け取り、知性(ブッディ)が即座に判断し、マナスは知性の判断を受け取ったら、それをまた末端の5感覚器官へ伝達し、該当する行動器官が行動するというように。。。

マナスは、訳すのが難しい。英語ではマインドと訳されているが…。
あえて言うなら、『意志』だろうか。

本来は、5感覚器官を束ねて制御するメカニズム、プラスアルファだ。
感覚司令塔の役目を持ち、また偉大な力を備えている。
念力(マインド・パワー)は、マナスの力の一部といえるだろう。

ヨーガでは、馬車に繋がれている5頭の馬(5感覚器官)を制御する「手綱」に例えられている。
「手綱」を握る御者の役目は、知性(ブッディ)であり、この馬車(肉体)に乗っているのが、真我(アートマン)というふうに。
感覚の対象は、道に例えられ、歩きにくい道もあれば、トゲ等もあるので、馬(感覚器官)は時として荒れる場合もあるのだ。
好き嫌いや快不快に振り回されるとは、単に馬(感覚器官)に翻弄されているだけなのである。

「私は誰か」。 
これを思い出すと、鎮まることだろう。

感覚器官を制御することは、大変有益である。
なぜなら、微細体や原因体を浄化するのに、役に立つから。

原因体の構成要素であるチッタ(心)には、今世持ってきたカルマ(良いカルマ・悪いカルマとも)、現世で生じた善悪のカルマ、それから様々な経験によって生じた残存印象(心に残った未消化な印象)なるものが記憶されている。
これらが、未来の行動を条件付けする原因となっている。
なので、これらの条件づけを解消するような行為は、
本当の自由を求める探求者には、大変有益なのである。

深い瞑想に入って、観じ取ってみてほしい。

原因体は、微細体よりももっと精妙な次元だ。
しかし、これがなかったら、生命あるものにはなり得ない。
日本では、魂という呼び方をしたりする。
アートマンを魂と呼ぶ場合もあるようだが。


生命そのものである真我の表現が、順を追って展開されたすべての「カラダ」だ。
「カラダ」を通して、真我は具体的な表現を持つ。

なんと素晴らしい仕組みではないか。
人を通じて、源の愛は、具体的な友愛に表現されるのだから。

祝福は、常に降りそそがれている。

om nama sivaya

真我を被うもの

2013-06-16 Sun : 真我の探求
真我は、5つの鞘(コーシャ)に被われ、3つの体をまとう

真我は、チッタ(心)の中心に座している。
真我を最初に包んでいる最も精妙な体は、原因体、コーザル・ボディ(カーラナ・シャリーラ)と呼ばれる。
心臓部にある小さな空間に位置する。

5つのコーシャの内、アーナンダ・マヤ・コーシャ(至福鞘)と言われる。 真我(アートマン)から生命の光を受け取り、知識エネルギー(ジニャーナシャクティ)と活動エネルギー(クリヤシャクティ)の情報をやりとりしている次なる体は、微細体、サトル・ボディ(スークシュマ・シャリーラ)といわれる。
ブッディ(理知)、マナス(マインド)、5つの微細感覚器官、5つの微細行動器官、5つの微細元素または感覚対象(タンマートラ)、
以上の17の実在原理から構成されている体だ。
脳のブラフマランドラといわれる空間に位置するといわれている。

ヴィジュニャーナ・マヤ・コーシャ(知性鞘)、マノマヤ・コーシャ(マナス鞘)が重なる。
マナスとは、知覚器官や行動器官を制御している司令塔という言い方もできよう。
意思力と、呼んでもよいだろう。

3つ目の体は、物質でできた体だ。
微細体から送られてくる力や刺激によって、肉体の動きは引き起こされている。
微細な物質でできたプラーナ・マヤ・コーシャ(プラーナ鞘)と、粗雑な物質でできたアンナ・マヤ・コーシャ(食物鞘・肉体)から成り立っている。


真我の生命の光は、全ての体に浸透していっている。
 どの瞬間も、休むことなく…。

生命ある実在は、真我だけであるにもかかわらず、
全てをイノチあるもののように活動させている。

大いなる実在に、宇宙原理に生かされている。
このイノチ…。

「私は誰か」を知る旅は、このイノチの源に行きつく。
ああ、 om tat sat.
祝福よ、祝福よ、祝福よ。

(合掌)

本当の自分とは何か

2013-05-16 Thu : 真我の探求
「本当の自分」とは、何か。

ヨーガ哲学では、アートマンとか、真我などと表現されている。
自己の本質、大我などという表現もある。

「本当の自分」は、実は5つの鞘(コーシャ)で覆われているという。
創造された精妙な順では、
アーナンダ・マヤ・コーシャ(至福の鞘)
ヴィジュニャーナ・マヤ・コーシャ(知性(ブッディ)の鞘)
マノマヤ・コーシャ(マナス(マインド)の鞘)
プラーナ・マヤ・コーシャ(プラーナの鞘)=(微細な物質でできた体)
アンナ・マヤ・コーシャ(食物の鞘)=肉体(粗雑な物質でできた体)

チッタ(心)は、アートマンを一番内側で被い、アハンカーラ(エゴ)が皮のようにチッタを覆っているという。 
この世は、常に変化するもの、それ自身が実在ではないもの。
真我の光があってはじめて存在するもの。

変化しないアートマンが、変化する5つの鞘に被われて、ヒトという存在が出来上がっているというわけだ。


変化しない、不変の実在。
その神性は、sat, cit, ananda とも表現される。 この世(幻影マーヤ)の世界において、サット(真理)に向かう引力は、サットヴァ(調和的な質)だ。
チット(普遍の愛)から生まれたからこそ、純粋なチッタ(心)がヒトには備わっている。
アーナンダ(至福)を具体的に経験する場として、この世(マーヤ)は創造されたとしか想えない。

ヒトによって、普遍の愛が、ありありとした愛の形に創造されるように…。 
ヒトは、愛されて生まれてきた。これに、疑いはない…。

祝福よ、祝福よ、祝福よ。 
om namah sivaya



合掌

『救い』とは何か。

2013-03-15 Fri : 真我の探求
「救い」とは何か。
人は、なぜ「救われたい。」と思うのか。

一時的な救いではなく、「救われた」とはどんな状態を指すのか。


人が生まれ落ちて来たその源は、絶対的真理であり、普遍意識(愛)であり、至福そのもの。
変わらない、分かれていない、ヒトツ。
sat chit ananda.

ゆえに、人には、この根源への求めが基本的に備わっている。

真理を知りたい、得たい…。
普遍的な愛を知りたい、得たい…。
至福を体験したい、体現したい…。

貴方は、どれほど強く求めているだろうか。

「求めよ。さらば与えられん。」
救い主イエスの言葉である。

強い渇望があればあるほど、探求は進む。
喉から手が出るほどの渇きがあれば…。


これらの求めが成就したとき、人は完全に「救われた」存在だ。
完全な自由。完全な解放。
存在の顕れであるところの、本来のヒトの姿。
Kaivalya.


さればこそ、祝福は降りそそぐ。
求める貴方に。

_a./u\.m_
合掌






プラナヴァ(聖音)

2013-02-12 Tue : 真我の探求
Pranava プラナヴァとは。

プラナヴァとは、聖なる音、聖なるヴァイブレーション。
aum と表現されたり、オーム、アーメンと表現されたりする。

ヒトは、本来、存在の顕れである。
ヒューマンという形をもつ『存在』だ。
だから、だれの内にも、秘めたる神性が在る。

この内なる神性に還る方法は、聖なる音の流れに没入し、自我が消え去ったときに完成するという。

ヨーガの修習を進めていくと、自然にaumの音がきこえてくるようになると言われている。

スワミ・シュリ・ユクテスワという聖者は、マハアバター・ババジの指示により、貴重な本「The Holy Science」(セルフリアライゼーション・フェローッシップ発行)を著してくださり、その本に以下の文章がある。

Aum is heard through caltivation of Shraddha (heart's natural love), Virya (moral courage), Smriti (memory of one's divinity), and Samadhi (true concentration).

(訳)
シュラッダー(全面的な信頼、すなわちチッタに元々備わる慈愛)、ヴィールヤ(有徳の勇気)、スムリティ(神性の記憶)、サマーディ(真の集中)を育むことによって、aumは聴こえてくる。


慈悲・慈愛は、ヒトの本性だ。
本来ある愛を育み、徳を行う勇気を育て、内なる神性の記憶を取り戻し、真の集中であるサマーディ、つまり光明と結合することこそ、真の自己実現だ。


トラブルを取り除き、疑いを一掃し、心の平安を授けてくれる人は、貴方のグルである。
貴方の周りにいるすべての人が、受け止め方次第で、グルになり得る。

反対に、疑いや困難を増すような人は避けた方が、貴方にとって有益だろう。


すべての人の心が、愛と平安で満たされんことを、心から祈ります。
_a./u\.m_

プラーナーヤーマ

2012-11-08 Thu : 真我の探求
プラーナーヤーマは、プラーナという根源的なエネルギー(Vital air)をコントロールする一つの手法である。
全ての物質も、プラーナが元になってできていると言われている。
あるいは、この世の全てを存在させている根源的な電気的エネルギーということもできるかもしれない。

吸う、保息、吐く、保息。
簡単に言うと、この繰り返しの仕方をどのように行うかによって、様々な修習方法となっているようだ。

Sidda(シッダ)の伝統によると、「プラーナーヤーマは内なるアグニホートラである」という。
アグニホートラとは、サンスクリットで、火を用いた祈祷儀式のことである。
アグニは、火の神でもある。

サンスクリットのマントラ・チャンティングを繰り返し朗誦していると、プラーナーヤーマの修習をやっているときと、同じような状態が自然にやってくることが多々ある。

例えば、自然に内側にギュウッと引き込まれるような保息状態で、しばらくの間止まっている…。


プラーナーヤーマも、マントラ・チャンティングも、内なるアグニホートラであると実感する。

内なる聖なる浄化の火(アグニ)が、不純を焼き尽くしてくれる、奥が深い手法であると観じられる。

人体は小宇宙であるので、深くどこまでも探求することができる。
行きつく先は、どこか。

人から聞いた答えは、参考にしかならない。
実際に自分で体験してみる。これ以外に真実に至る道はない。

_a./u\.m_

インドと日本に保持されているエネルギー

2012-10-11 Thu : 真我の探求
インドの聖地、リシケシ

聖地といわれるリシケシで、聖なる女神ガンガー(ガンジス川)の川辺で瞑想する…。
すると、大地のエネルギーが、深く中心へと向かうエネルギーをサポートしてくれるような、そんなエネルギーを観じる。

The land of veda といわれるインドの大地で、太古から保持されているエネルギーだ。

日本は、The land of rising sun といわれている。
日本で太古から保持されているエネルギーだ。
あるインドのマハリシは、次のようにおっしゃっていた。
「新しくものを始めるときには、日本から始めなさい。その方が早く世界中に広がります。」

朝日のエネルギーとは、ハジマリであり、かつ広がり浸透しゆくエネルギーである。

広がるエネルギーは遠心力であり、中心に向かうエネルギーは求心力である。

遠心力と求心力。陰と陽。
どちらも、欠けてはならない創造エネルギー。
二つで一つ(全体)。
一つがふたつ。
一つである根源エネルギーの、別なアラワレ。違った姿形。

この世のものは、必ずハジマリがあり、そしてオワリがある。
出会いがあり、そして別れがあるがごとく。
現れて、そして消えるがごとく。

すべては、
rising and setting,
rising and setting,
rising and setting .....


相対世界の二元性は、変化し続ける…。

変化しないものは、何か。
不変の至福へと向かう道は、奥が深い。

内なるサイレンス。
ここに全ての答えがある…。
言葉にならない、全知が存在する。

_a./u\.m_



真理は、どこからやってくるか。

2012-09-19 Wed : 真我の探求
絶対の「真理」。ジュニャーナ。

これは、どこからやってくるのか。

源のサイレンス。
これ以外にはあり得ない。

自分の外側に求めても、他者に求めても、そこには見つけられない。
なぜなら、外側には無いからだ。
ヒントになるものは、あるかもしれない。

自分ができる努力とは、サイレンスに浸れるように、あらゆる心と体の緊張を解放することぐらいだろう。
「ヨーガ・スートラ」を著してくださったパタンジャリは、自分に合ったどんな方法でも良いと言っている。

アシュターンガ・ヨーガという8つのヨーガの手法もある。
アーユルヴェーダの浄化法であるパンチャカルマや薬草を用いる方法、
内なる神・イーシュワラに集中する方法、
または、自分が得たことのある神秘的なヴィジョンや体験に集中する方法、等々でもよいと。

大切なのは一つの方法で、深く掘り下げ続けることだと。
存在の源へ向かうことだと。

一瞬、一瞬、自分を細かく観察する…。
体の微細な感覚、
雲のように湧き上がっては行ってしまう思考、
心の動き、
さらにはその観察者を…。


自分ができる努力は、最後の一歩手前までだ。
最後の一歩は、『絶対なる存在』の恩寵によって 起こる。
神聖なる内なるグルに、存在に、ひれ伏すことによってしか 起こらない。

自らの内なる「光輝き」の扉が全開になり、
一人一人が、世を照らす光輝く存在になられることを、心からお祈りしております。

_a./u\.m_




音の価値

2012-08-18 Sat : 真我の探求
サンスクリットとヤマトの音霊・言霊

普段使っている話し言葉とは別の次元に、原初音(pranava プラナヴァ)といわれる音がある。
例えば、om オームがそれだ。原初音とはうなりのような音なので、オームと表現されたり、アーメンと表現されたりしている。
シンギングボールの奏でる響きや倍音も、この原初音のうなりの表現だといえよう。
脳波にアルファ波が増えることや癒しに効果があることが、一般にも認知され始めてきている。

サンスクリットは、言語としての意味も持っているが、意味がわからなくても一音一音が価値を持っているので、現象界にその音の価値が発現するといわれている。

一方、ヤマトの音霊・言霊も、同じように一音一音が価値を持っているので、現象界にその価値を発現させることができる言語だ。例えば、「ありがとう」という言霊を水にかけると、水の結晶が美しく変化することはよく知られている事例だ。

インド・リシケシで、ある賢者にご縁があったので、
「日本の言語もサンスクリットと同じように音の価値を持っています。また、オームと同じように、意味はなく音の価値だけの音の羅列があります。プラナヴァのような音です。ちょっと聴いてみてください。」と言って、ヒフミ祝詞を聴いてもらった。

すると、「まるでオームのような音ですね。一つ一つの音において、より完成されているように観じられました。あなたのチャンティング自体も、素晴らしかったです。」と。

意味無きその音の価値を感じ取ってくださった、素晴らしい賢者だった。

『発音が完全であれば、その現れもまた完全となる.』
したがって、どちらも完全な発音を持って心底から唱えると、現象を作り出す力を秘めている言語であるといえよう。
自らを調え、サイレンスに立脚して唱えてみよう。

_a./u\.m_

「この世とマインド」

2012-03-18 Sun : 真我の探求

「BABAJI - The Divine Himalayan Yogi」より引用。


(著者 Swami Satyeswarananda Giri)


非常にわかりやすく簡潔に「この世とマインド」とは何であるかを語っている、聖者ババジの質疑応答を紹介したい。



The World and the Mind
  この世とマインド


(註)マハー・アヴァター・ババジ(Maha Avatar Babaji、伝承では203年11月30日生)とは、ヒマラヤで隠棲している不老不死の聖者。

マハーは「偉大な」、アヴァターは「神の化身」、ババジは「聖父」を意味する。

ババジは、『あるヨギの自叙伝』の著者、パラマハンサ・ヨガナンダの師匠スリ・ユクテスワ、そのまた師匠ラヒリ・マハサヤのグルである。

彼の姿を見た人の話では、若々しく、肌は健康的な褐色、髪は赤褐色の長髪で、その体は常に金色のオーラに包まれているという。




Q)この世とは、何でしょうか?



MB)この世とは、「ウチなる音:オーム、アーメン、アーミンなど」と、「その音が置き換えられたもの」以外の何ものでもない。



この世は、5つの感覚器官に対応する「対象物」で構成されている。感覚器官の5つの感覚を通して感じ取る 『感覚刺激』をあなたのマインドが認識し、あなたはこの世を見るのである。

このようであるとき、この世はマインド以外の一体何によって構成され得ると言えるだろうか。



この世は、相対的である。認識するマインドにとって、相対的なのだ。


この世を眺めていると、例えば人は、その人が正しいと感じた思いや考えを、それがどれほど真実であるかを他者に証明しようとして、根拠を探りロジックを展開している。しかし、うまくいかないことが多いだろう。なぜなら、まずその考えを思考する自分自身を正しく知らないからだ。




自分自身(知る者)についての真実を知らない探求者にとって、相対界に生じた「ある対象物」に関する理解が、一体どうやって真実であり得ようか?



あなたが、自分(主体)の背後にある真実を完全に知るとき、無知、部分的な知識、理解そのもの(錯覚にとらわれた、これら3つの状態)は、自動的にやむことだろう。そのときにのみ、あなたは完全に、絶対的な知識または真実に確立されうる。



Q)我々の前に、この世が最初に現れたのはいつですか?



MB)あなたが眠りから覚めたとき、真我の光である一筋の光が現れ、そしてその光は、宇宙意思(または宇宙知能)を通り抜ける。



(参考)
  「我は世の光である。」ヨハネによる福音書9:5


その光は、エゴに降りる。そして光はエゴに反射し投影されていく。(訳者註:例えて言うと、エゴがプリズムのような働きをして、透明な光は屈折され、様々な色が表現される。)
 

投影された光(エゴを通過した光)であるが故に、個別の肉体やこの世が現れ(色づく)、そして肉体やこの世は、マインドの様々な作用によって知覚されるのである。


あなたのマインドがこのエゴを通過した光で照らされると、そのマインドはこの世を認識する。そして結果として、あなたはこの世を見るのである。あなたのマインドがこのエゴを通過した光に照らされていないときは、マインドはこの世を認識しない。


実はあなたは、自身のウチなる真我を忘れることによって、この世の対象物を見ているのである。

あなたが五感覚からも退き、真我(サマーディの状態)に深くとどまるとき、この物質世界をあなたは見ることはできないだろう。事実はその通りである。


Q)この世は、本物ですか?



MB)もしあなたが、マインドが存在するかどうかについて本気で探求するならば、マインドは存在しないことを見出すだろう。それは、単に根拠のない説に過ぎない。


もしあなたが、「このマインドとは何か」を知りたいと本気で探求するならば、マインドは思考のかたまり以外の何ものでもないことを見出すだろう。そして思考は、エゴなくして存在することができない。エゴとは、ほとんどの人の非常に親しい友人ではあるが。

 


しかし、もしエゴ氏がどこから来るのかをあなたが知ろうと探求するならば、すると、それ以外の思考は簡単に消えていくことに気づくだろう。なぜなら、思考とは、マインドによって想像されたものだからだ。


したがって、マインド、思考、エゴは、全て根拠のないものであることがわかる。

つまり、実体がないのだ。

あなたが、それらを本当に存在していると受け取めているだけで、自分で自分自身をトラブルに巻き込んでしまっているのである。この世はマインドの投影であり、マインドは実体がないとすると、この世はどうやって実在であり得ようか?



Q)例を挙げて、説明していただけますか?



MB)例えば、映画のスクリーン上で、ある人物が世の中全体の動きを見ているとしよう。

映画上で、この人物が主体であり世の中が客体であるが、スクリーンの背後にあるリアリティ(実在)、つまり本当の主体(知る者)と客体(対象)を識別することが、この人物にできようか。

幻影の人物が幻影の世の中を見ていることが、非常によくわかることだろう。「あなたとこの世の中」とは、正に「映画に登場した人物と世の中」と実質的には同じである。



Q)この世とマインドは、相対的なものであり、また、この世はマインドの投影で、かつこの世とマインドは同義的であるとおっしゃっていますが、これについてコメントしていただけますか?



MB)この世は幻影(マーヤ)であり、また、外側に表現された外観あるいは多様性の表現でしかないので、この世について話すことは有益ではない。


この世とマインドは同じものの別な表現でしかなく、現れては消える。しかし、そのうちの客観的世界(この世)がどのように表現されるかは、単独でそのマインドに依存する。


全く動きのない(現れることもなく消えることもない)、唯一無限なる純粋意識においては、それら二つは分けることができず、現れては消えていく現象に過ぎない。ここでいう純粋意識とは、究極の真我のことである。



Q)人は、どのように真我を実現するでしょうか?



MB)「マインドとは何か」と本気で探求し続けるならば、そのとき自動的に、この世またはマインドから離れるだろう。またその探求をしている間は、思考が消えていることに、あなたは気づくだろう。

最終的に、あなた自身のマインドの背後にある、内側深くに存在する「何か」を、あなたは見出す。

それは、真我の純粋な意識である。



Q)マインドと真我の関係性とは、何でしょうか?



MB)探求において、あなたは、マインドが独立して存在していないというリアリティ(実体)に気づくだろう。

真我は、マインドがなくても存在する。マインドは、真我がなければ存在し得ない。あなたのマインドがそうであるので、あなたにとってのこの世も同様で、真我なく存在し得ないものなのである。




エゴと知性(Intellect)




Q)エゴとは、何ですか?



MB)エゴとは、マインドの別の名前である。



Q)それは、エゴも実在ではないという意味ですか?



MB)その通りだ。例えば、あなたは寝ているとしよう。そのとき、不完全であり無知であるという感覚はない。それと同じように、エゴそれ自体が、不完全であり無知なのである。



Q)エゴの主な特徴は、何でしょうか?



MB)エゴとは、ゴーストのようなもの。独立して存在しないものである。



Q)エゴは、どのように生じるのですか?



MB)エゴは、真我の純粋な意識と物理的な身体の間で生じ、それらの間で活動している。



Q)エゴの真実の姿は、どのようなものでしょうか?



MB)思考が、エゴの対象物だ。エゴは、思考に付着している。例えば、芋虫は決して今掴んでいる葉を次の葉を掴むまで離さないが、これに似ている。

 

エゴは、同じように思考から思考へと移動している。もしあなたが、思考と思考の隙間(瞬間)において、エゴを見つけようとエゴを観察し続けることができれば、あなたは、エゴの真実の姿を理解することができるだろう。

 


驚くに十分であるが、あなたはエゴが非実在であることに気づくだろう。そして、その思考と思考の隙間において無思考であるとき、あなたは、真我の真実の姿を悟るであろう。


この世は、エゴに基づいている。思考と思考の隙間において、あなたがもしエゴは非実在であると気づけば、この世も実は非実在であることに気づくだろう。

 

それと同時に、真我の真実の姿を悟るとき、あなたは究極の真我の純粋な意識の内に、自身を見出す。そしてそれに合わせて、「この世」の代わりに、「純粋意識」をどこにも見ることだろう。




Q)知性(ブッディ)とは、何でしょうか?



MB)知性とは、マインドの別の名前である。実に、マインド(マナス/意志)、エゴ(アハンカーラ/自我意識)、知性(ブッディ)は、「内的心理器官(アンタカラナ)」に対する別の用語である。


(訳注:内的心理器官は、通常4つあるとされる。マナス(意志)、ブッディ(知性)、アハンカーラ(自我意識・エゴ)、チッタ(ハート))



Q)では、知性も不完全なものであるということですか?



MB)そうだ。人々は通常、「私の知性では」等という。つまり、知性は彼らに帰属しているということだ。そのような個人に帰属する知性は、本来の理知ではない。

しかし、知性は、真我なく存在し得ないものだ。


真我は、不変の実在である。一方、知性は、単に一つの事象である。

例えていえば、夢の中で、知性が寝ているとするならば、夢は自然に起こった現象に過ぎないと見なされる。これと同様である。


パタンジャリのヨーガ・スートラ 第1章

2012-03-18 Sun : 真我の探求
Yoga Sutras of Patanjali
パタンジャリのヨーガ・スートラ

Chapter 1: Samadhi Pada
第1章 サマーディ・パーダ(「光明」との結合)

atha yoga-anuśāsanam ||1||
アタ ヨーガーヌシャーサナム
これよりヨーガを詳しく説く。

<参考>
ヨーガの本来の意味は、結合であり、例えば馬を車につなぐことである。
「安らぐ源に心をつなぐこと」と解することもできる。
あるいは、「神聖なるものに心をつなぐこと」ともいえよう。

yogaś-citta-vṛtti-nirodhaḥ ||2||
ヨーガシュ チッタ ヴリッティ ニローダハ
ヨーガの状態、即ち神聖なるものに心がつながると、心(チッタ)の作用は止滅する。

tadā draṣṭuḥ svarūpe-'vasthānam ||3||
タダー ドゥラシュトゥス スヴァルーペー ヴァスターナム
そのとき観る者は、ただ「それ」本来の姿に安住する。

vṛtti sārūpyam-itaratra ||4||
ヴルッティ サールーピヤム イタラットラ
心の作用とは、心が「それ」以外の対象に同化している状態である。

vṛttayaḥ pañcatayyaḥ kliṣṭākliṣṭāḥ ||5||
ヴルッタヤフ パンチャタイヤフ クリシュタークリシュターハ
心の作用は五つあり、苦をもたらすものと苦をもたらさないものがある。

  ※無私の行為は、苦をもたらすことはない。

pramāṇa viparyaya vikalpa nidrā smṛtayaḥ ||6||
プラマーナ ヴィパルヤヤ ヴィカルパ ニドラー スムルタヤハ
正知、誤認、想像上の理解、睡眠、記憶である。

pratyakṣa-anumāna-āgamāḥ pramāṇāni ||7||
プラティヤクシャ アヌマーナーガマーフ プラマーナーニ
直接的知覚、推理、及び聖典による証言が、正知である。

viparyayo mithyā-jñānam-atadrūpa pratiṣṭham ||8||
ヴィパルヤヨー ミティヤー ジュニャーナマタドルーパ プラティシュタム
誤認は、対象の実体に基づいていないときに生じる。

śabda-jñāna-anupātī vastu-śūnyo vikalpaḥ ||9||
シャブダ ジュニャーナ アヌパーティー バストゥ シューンニョー ヴィカルパハ
実体がなく言葉の上だけの知識は、想像上の理解、錯覚である。

abhāva-pratyaya-ālambanā tamo-vṛttir-nidra ||10||
アバーヴァ プラティヤヤーラムバナー タモーヴルッティル ニドラ
「何もない」という印象に同化し、タマス(鈍い重い質)を帯びた心の作用が、睡眠である。

anu-bhūta-viṣaya-asaṁpramoṣaḥ smṛtiḥ ||11||
アヌ ブータ ヴィシャヤーサンプラモーシャス スムルティヒ
過去に経験した対象が心に印象を残したままになっているのが、記憶である。

abhyāsa-vairāgya-ābhyāṁ tan-nirodhaḥ ||12||
アビヤーサ ヴァイラーギャービャーム タンニローダハ
修習、離欲は共に、これが止滅する助けとなる。

tatra sthitau yatno-'bhyāsaḥ ||13||
タットラ スティタウ ヤトゥノービヤーサハ
これにおいて、絶え間ない不断の努力が修習(アビヤーサ)である。

sa tu dīrghakāla nairantarya satkāra-ādara-āsevito dṛḍhabhūmiḥ ||14||
サトゥ ディールガカーラ ナイランタルヤ サットカーラーダラーセーヴィトー ドルダブーミヒ
修習は、長期間継続して真剣に実習し続けると、堅固な基礎となる。

dṛṣṭa-anuśravika-viṣaya-vitṛṣṇasya vaśīkāra-saṁjṇā vairāgyam ||15||
ドルシュターヌシュラヴィカ ヴィシャヤ ヴィトルシュナッシィヤ ヴァシーカーラ サムジュナー ヴァイラーギャム
見たり聞いたりする対象に欲求をいだかず、意識して心の平静を保つことが離欲(ヴァイラーギャ)である。


tatparaṁ puruṣa-khyāteḥ guṇa-vaitṛṣṇyam ||16||
タットパラム プルシャ キャーテーヘ グナ ヴァイトルシュンニャム
至高の状態はプルシャ(真我)の顕現であり、そのとき、グナは渇きの無い状態になる。

 ※グナ: サトワ(純質)、ラジャス(活動・激しさの質)、タマス(覆い隠す質)の3つの変化作用の質。


vitarka-vicāra-ānanda-asmitā-rupa-anugamāt-saṁprajñātaḥ ||17||
ヴィタルカ ヴィチャーラーナンダ アスミタールーパーヌガマーッ サムプラジュニャータハ
具体的な物質を対象として心を集中する行、見えない微細な感覚対象に集中する行、さらに精妙な至福(歓喜)を観想する行、至福からも離れただ「私であること」を観想する行がある。心に想いの種子が、何か伴なわれている。

<参考>
心の焦点が具体的な対象の上に定まったときに生じるサヴィタルカ・サマーディ。
タンマートラ(微細な感覚対象)に集中して生じるサヴィチャーラ・サマーディ。
さらに精妙な至福(歓喜)を観想する、サアーナンダ・サマーディ。
至福からも離れただ「私であること」を観想する、サアスミター・サマーディ。
これらの4つは、サンプラジュニャータ・サマーディ(有想三昧)と呼ばれている。


virāma-pratyaya-abhyāsa-pūrvaḥ saṁskāra-śeṣo-'nyaḥ ||18||
ヴィラーマ プラティャヤービヤーサ プールヴァス サムスカーラ シェーショーニャハ
想いの種子からも離れるように修習を続けていくと、過去のサンスカーラ(未顕現の印象の種子)も無害化され、別の違った状態となる。

<参考>
この状態は、アサンプラジュニャータ・サマーディ(無想三昧)と呼ばれている。

bhava-pratyayo videha-prakṛti-layānam ||19||
バヴァ プラティャヨー ヴィデーハ プラクルティ ラヤーナム
想いの種子が無害化されないまま肉体を離れた高徳の魂は、その徳質のまま再び輪廻転生する。プラクリティ(根本原質・源)にとけ込んで。

śraddhā-vīrya-smṛti samādhi-prajñā-pūrvaka itareṣām ||20||
シュラッダー ヴィールヤ スムルティ サマーディ プラジュニャー プールヴァカ イタレーシャーム
全面的な信頼、有徳の勇気、神性の記憶、サマーディ(光明との結合)によって、先に述べた別の状態はやってくる。

※別の状態とは、アサンプラジュニャータ・サマーディ(無想三昧)のこと。

tīvra-saṁvegānām-āsannaḥ ||21||
ティーヴラ サムヴェーガーナーム アーサンナハ
集中して修練すると、目的地は近い。

mṛdu-madhya-adhimātratvāt-tato'pi viśeṣaḥ ||22||
ムルドゥ マッディヤ アディマートラトヴァッ タトーピ ヴィシェーシャハ
軽い修練、中程度の修練、集中した修練なのかによっても、違った結果がやってくる。


īśvara-praṇidhānād-vā ||23||
イーシュワラ プラニダーナードヴァー
イーシュワラ(自在神、至高意識)へ、全てを委ねて献身することも、道の一つである。

kleśa karma vipāka-āśayaiḥ-aparāmṛṣṭaḥ puruṣa-viśeṣa īśvaraḥ ||24||
クレーシャ カルマ ヴィパーカ アーシャヤイヒ アパラームリシュタフ プルシャ ヴィシェーシャ イーシュワラハ
欲求し、行為をなし、行為の結果がやってきて、さらにその印象が次の行為の種子になるわけだが、このようなものから永遠に解放されている至高のプルシャ(真我)が、イーシュワラである。

tatra niratiśayaṁ sarvajña-bījam ||25||
タットラ ニラティシャヤム サルヴァジュニャー ビージャム
そこはこの上ない無上の境地であり、全ての源、「全知」の種子だ。

sa eṣa pūrveṣām-api-guruḥ kālena-anavacchedāt ||26||
サ エ-シャ プールヴェーシャーム アピ グルッ カ-レーナーナヴァッチェーダートゥ
太古のグルたちにとってもグルであり、時間の拘束を受けていない。

tasya vācakaḥ praṇavaḥ ||27||
タスィャ ヴァーチャカフ プラナヴァハ
その存在をコトバに表わすと、それはオームという原初のゆらぎである。

taj-japaḥ tad-artha-bhāvanam ||28||
タッジャパハ タッド アルタ バーヴァナム
そのオームのジャパ(反復誦唱)は、その目的地(イーシュワラ)への黙想となる。


tataḥ pratyak-cetana-adhigamo-'py-antarāya-abhavaś-ca ||29||
タタッ プラティヤク チェータナーディガモー アピャンタラーヤ アバヴァシ チャ
これにより、内なる意識が自ら気づきをもたらし、そして障害はなくなっていく。

vyādhi styāna saṁśaya pramāda-ālasya-avirati bhrāntidarśana-alabdha-bhūmikatva-anavasthitatvāni citta-vikṣepāḥ te antarāyāḥ ||30||
ヴャーディ ステャーナ サムシャヤ プラマーダーラスィヤ アヴィラティ ブラーンティダルシャナ アラブダ ブーミカットヴァ アナヴァスティタットヴァーニ チッタ ヴィクシェーパハ テー アンタラーヤハ
病気、無気力、疑念、不注意、怠惰、抑制心の欠如、妄想にとらわれた見方、進歩したレベルから後退すること、情緒の不安定さは、心の清さを失わせ、これの障害になる。

duḥkha-daurmanasya-aṅgamejayatva-śvāsapraśvāsāḥ vikṣepa sahabhuvaḥ ||31||
ドゥッカ ダウルマナスィャ アンガメージャヤットヴァ シュヴァーサプラシュヴァーサーッ ヴィクシェーパ サハブヴァハ
悩み、憂鬱、身体の震え、呼吸の乱れは、気が散漫になっている兆しである。

tat-pratiṣedha-artham-eka-tattva-abhyāsaḥ ||32||
タット プラティシェーダ アールタム エーカ タットヴァ アビヤーサハ
それらを避けて目的地に至るには、一つのやり方で、修練を深く掘り下げ続けることだ。

maitrī karuṇā mudito-pekṣāṇāṁ-sukha-duḥkha puṇya-apuṇya-viṣayāṇāṁ bhāvanātaḥ citta-prasādanam ||33||
マイトリー カルナー ムディトー ペークシャーナーム スッカ ドゥッカ プンニャ -プンニャ ヴィシャヤーナーム バーヴァナータッ チッタ プラサーダナム
慈愛、憐れみ(慈悲心)、喜び、手放しをもって、幸福な人、不幸な人、徳のある人、不徳の人に対処する姿勢を育くめば、心は何にも乱されない平静さを保つ。

pracchardana-vidhāraṇa-ābhyāṁ vā prāṇasya ||34||
プラッチャルダナ ヴィダーラナ アービヤーム ヴァー プラーナスィヤ
吐息および保息の両方に注目し、プラーナを整えることも、心の平静さを保つ。

viṣayavatī vā pravṛtti-rutpannā manasaḥ sthiti nibandhinī ||35||
ヴィシャヤヴァティー ヴァー プラヴルッティ ルトパンナー マナサス スティティ ニバンディニ-     精妙な感覚的体験(霊妙な体験等)に集中することも、想念波動を安定した状態に保つ。

viśokā vā jyotiṣmatī ||36||
ヴィショーカー ヴァー ジョーティシュマティー
あるいは、至福に満ちた無上の「内なる光」に集中することによって。

vītarāga viṣayam vā cittam ||37||
ヴィータラーガ ヴィシャヤム ヴァー チッタム
あるいは、執着から解放されている聖者の心に集中することによって。

svapna-nidrā jñāna-ālambanam vā ||38||
スヴァプナ ニドラー ジュニャーナ アーラムバナム ヴァー
あるいは、夢や睡眠の中で得た体験知を想い出し集中することによって。

yathā-abhimata-dhyānād-vā ||39||
ヤター アビマタ ディヤーナードヴァー
あるいは、惹きつけられ、かつ精神を高めるようなものに瞑想することによって。

paramāṇu parama-mahattva-anto-'sya vaśīkāraḥ ||40||
パラマーヌ パラマ マハットヴァ アントースィヤ ヴァシーカーラハ
根源的な微小原子から巨大な全宇宙に至るまでに、これの習熟度は拡大していく。

kṣīṇa-vṛtter-abhijātasy-eva maṇer-grahītṛ-grahaṇa-grāhyeṣu tatstha-tadañjanatā samāpattiḥ ||41||
クシィーナ ヴルッテーラビジャータスエーヴァ マネール グラヒートル グラハナ グラーヒェーシュ タッツタ タダンジャナター サマーパッティヒ
外向きの心の作用が静まると、心は水晶のような透明な映し鏡になり、知る主体ー知る過程ー知られる対象は、そこにあるものをそのまま映し出し(3つが等しいものになる)、サマーディ(光明との結合)が起こる。

tatra śabdārtha-jñāna-vikalpaiḥ saṁkīrṇā savitarkā samāpattiḥ ||42||
タットラ シャブダールタ ジュニャーナ ヴィカルパイス サムキールナー サヴィタルカー サマーパッティヒ
物質的な何かに集中して瞑想を行じるとき、言葉とその対象物およびその知識が別々にやってくるときのサマーディ(光明)は、サヴィタルカ・サマーディ(有尋三昧)である。

smṛti-pariśuddhau svarūpa-śūnyeva-arthamātra-nirbhāsā nirvitarkā ||43||
スムルティ パリシュッダウ スヴァルーパ シューンニェーヴァールタマートラ ニルバーサー ニルヴィタルカー
物質的な何かに集中して瞑想を行じるときで、心に刻まれた過去の印象が浄化され心が空であると、知られる対象だけがただ輝き現れる。このサマーディ(光明)は、(知る主体と知る過程を経ずに知がやってくる)ニルヴィタルカ・サマーディ(無尋三昧)である。

※過去の印象による反応(思考)を伴わずに生じるサマーディ(光明)。

etayaiva savicārā nirvicārā ca sūkṣma-viṣaya vyākhyātā ||44||
エータヤイヴァ サヴィチャーラー ニルヴィチャーラー チャ スークシュマ ヴィシャヤ ヴィヤーキヤーター
同様にして、精妙な感覚対象に集中して瞑想を行じるときに起こるサマーディ(光明)は、サヴィチャーラ・サマーディ(有伺三昧)とニルヴィチャーラ・サマーディ(無伺三昧)である。

sūkṣma-viṣayatvam-ca-aliṇga paryavasānam ||45||
スークシュマ ヴィシャヤットヴァム チャ アリンガ パルヤヴァサーナム
精妙な要素の性質を対象として行じる瞑想は、やがて最も精妙で未分化な状態の根源力プラクリティにも到達する。

tā eva sabījas-samādhiḥ ||46||
ター エーヴァ サビージャス サマーディヒ
以上のものは、種子あるサマーディ(光明)である。

nirvicāra-vaiśāradye-'dhyātma-prasādaḥ ||47||
ニルヴィチャーラ ヴァイシャーラディエー ディヤートマ プラサーダハ
ニルヴィチャーラ・サマーディがさらに純粋になると、至高の自己が永遠に輝き出す。


ṛtaṁbharā tatra prajñā ||48||
ルタンバラー タットラ プラジュニャー
その状態においては、リタンバラー・プラジュニャー(絶対的真理の英知)が直接やってくる。

śruta-anumāna-prajñā-abhyām-anya-viṣayā viśeṣa-arthatvāt ||49||
シュルターヌマーナ プラジュニャービヤーム アンニャ ヴィシャヤー ヴィシェーシャ アルタットヴァーッ
この状態に達すると、口伝や推論、聖典から学んだ知識とは異なる、それを超えた絶対的真理の英知が直接やってくる。


tajjas-saṁskāro-'nya-saṁskāra pratibandhī ||50||
タッジャス サムスカーローンニャ サムスカーラ プラティバンディー
このサマーディ(光明との結合)状態において生じる印象は、他の潜在する印象をすべて消し去る。


tasyāpi nirodhe sarva-nirodhān-nirbījaḥ samādhiḥ ||51||
タッスィヤーピ ニローデー サルヴァ ニローダーン ニルビージャス サマーディヒ
この微かな印象さえも止み、全てが止滅すると(知る主体もなく知られる対象もない)、完全に因果から解放された、種子無きニルビージャ・サマーディ(無種子三昧)の状態となる。



以上が、パタンジャリのヨーガ・スートラ、第1章サマーディ・パーダである。

究極の「自分探しの旅」(2)

2012-03-18 Sun : 真我の探求
 聖典とは、直知された真理が表現されたもの。
偉大な聖者たちが、具体例や比喩を用いて、周りの必要を満たすように可能な限りを表現してくださった賜物だ。
いつの時代にもずっと、人々の進化成長の道しるべとなってきた。

 聖典とは、読む度に読む者の欲している気づきがやってくる。
読む者の状態は常に変化している。ゆえに新しい気づきが常にやってくる。
そこに、大調和(源の満ち足りし完全)があるからだ。
 
 意味がわからなくても、音として耳から聴くだけでも、調和という質がやってくるようだ。

 例えば、ヨーガの聖典といわれる「パタンジャリのヨーガ・スートラ」は、心の特性に関して、非常に詳細に説いている。
 ぜひ、この聖典に触れて、心はコントロールができるものであることを、さらに、心の作用は超えることができることを、まずは知る手立てとしてみてはいかがだろうか。

 トニー・ネーダー医学博士は、ヴェーダ全体の構造が人間の身体の詳細な構造とそれぞれ一対一で対応していることを発見され、「人間の生理-ヴェーダとヴェーダ文献の現れ」(マハリシ総合研究所発行)に著している。特にこのヨーガ・スートラの構造は、大脳皮質の連合繊維の詳細な構造と一致しているという。
 第1章サマーディ・パーダは脳の後頭葉、第2章サーダナ・パーダは前頭葉、第3章ヴィヴーディ・パーダは頭頂葉、そして最後の第4章カイヴァリヤ・パーダは側頭葉に対応しているという。後頭葉は、視覚(観るという感覚神経)・認識を主に担っている部位である。

 まず、「パタンジャリのヨーガ・スートラ」の中で、最も根幹である第1章サマーディ・パーダを、次の記事に紹介してみたい。

 サマーディとは、純粋意識(真我)の直接体験という言い方もできる。
サマーディは、自然に自動的に準備が調うと起こるものであるが、個人の努力(障害になっているものを取り除くこと)によって、直接体験が起こる可能性が高まると教えている。

 サマーディの体験は、人間の姿形があってこそ生じる体験だ。最初は一瞬かもしれない。が、その一瞬は数分に、さらにはもっと長く数時間あるいは数日間持続できるようになる可能性がある。そして、ついには24時間永続するように、脳のフォーメーションが変容していく可能性があると。

 読んだり聞いたりしたことは、良いと感じたら、実際に自分自身で経験し確認するのがよい。すると、自己の内側で何か変容が起こる。
 試してみる価値が、あるのではないだろうか。

 聖典は原文のまま味わうのが最善であるが、これは中々難しい。
そこでできるだけ原典そのままが伝わるように、ローマ字による原文を表記し、シンプルな訳をあえて試みた。つたない訳ではあるが、多様性の表現の一つとしてお許しを願いたい。他に素晴らしい解説書がたくさん出版されているので、他の書物をご参照いただき補足をお願い申し上げることとさせていただきたい。

究極の「自分探しの旅」(1)

2012-03-18 Sun : 真我の探求
ओम् om

自分を知る…。

自分とは何か。私とは誰か。

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私とは誰か。

「私」という主体は、一体、誰なのか。

体なのか。
感覚器官なのか。
マインド(意志)なのか。
理性(知性)なのか。
ハートなのか。
魂なのか。

それとも、それらを超えた何かなのか。

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अहम् ब्रह्मसुमि
aham brahmasumi
アハン ブラフマースミ

我はブラフマンなり。


祝福は、常に降りそそがれている…。