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パタンジャリのヨーガ・スートラ 第1章

2012-03-18 Sun : 真我の探求
Yoga Sutras of Patanjali
パタンジャリのヨーガ・スートラ

Chapter 1: Samadhi Pada
第1章 サマーディ・パーダ(「光明」との結合)

atha yoga-anuśāsanam ||1||
アタ ヨーガーヌシャーサナム
これよりヨーガを詳しく説く。

<参考>
ヨーガの本来の意味は、結合であり、例えば馬を車につなぐことである。
「安らぐ源に心をつなぐこと」と解することもできる。
あるいは、「神聖なるものに心をつなぐこと」ともいえよう。

yogaś-citta-vṛtti-nirodhaḥ ||2||
ヨーガシュ チッタ ヴリッティ ニローダハ
ヨーガの状態、即ち神聖なるものに心がつながると、心(チッタ)の作用は止滅する。

tadā draṣṭuḥ svarūpe-'vasthānam ||3||
タダー ドゥラシュトゥス スヴァルーペー ヴァスターナム
そのとき観る者は、ただ「それ」本来の姿に安住する。

vṛtti sārūpyam-itaratra ||4||
ヴルッティ サールーピヤム イタラットラ
心の作用とは、心が「それ」以外の対象に同化している状態である。

vṛttayaḥ pañcatayyaḥ kliṣṭākliṣṭāḥ ||5||
ヴルッタヤフ パンチャタイヤフ クリシュタークリシュターハ
心の作用は五つあり、苦をもたらすものと苦をもたらさないものがある。

  ※無私の行為は、苦をもたらすことはない。

pramāṇa viparyaya vikalpa nidrā smṛtayaḥ ||6||
プラマーナ ヴィパルヤヤ ヴィカルパ ニドラー スムルタヤハ
正知、誤認、想像上の理解、睡眠、記憶である。

pratyakṣa-anumāna-āgamāḥ pramāṇāni ||7||
プラティヤクシャ アヌマーナーガマーフ プラマーナーニ
直接的知覚、推理、及び聖典による証言が、正知である。

viparyayo mithyā-jñānam-atadrūpa pratiṣṭham ||8||
ヴィパルヤヨー ミティヤー ジュニャーナマタドルーパ プラティシュタム
誤認は、対象の実体に基づいていないときに生じる。

śabda-jñāna-anupātī vastu-śūnyo vikalpaḥ ||9||
シャブダ ジュニャーナ アヌパーティー バストゥ シューンニョー ヴィカルパハ
実体がなく言葉の上だけの知識は、想像上の理解、錯覚である。

abhāva-pratyaya-ālambanā tamo-vṛttir-nidra ||10||
アバーヴァ プラティヤヤーラムバナー タモーヴルッティル ニドラ
「何もない」という印象に同化し、タマス(鈍い重い質)を帯びた心の作用が、睡眠である。

anu-bhūta-viṣaya-asaṁpramoṣaḥ smṛtiḥ ||11||
アヌ ブータ ヴィシャヤーサンプラモーシャス スムルティヒ
過去に経験した対象が心に印象を残したままになっているのが、記憶である。

abhyāsa-vairāgya-ābhyāṁ tan-nirodhaḥ ||12||
アビヤーサ ヴァイラーギャービャーム タンニローダハ
修習、離欲は共に、これが止滅する助けとなる。

tatra sthitau yatno-'bhyāsaḥ ||13||
タットラ スティタウ ヤトゥノービヤーサハ
これにおいて、絶え間ない不断の努力が修習(アビヤーサ)である。

sa tu dīrghakāla nairantarya satkāra-ādara-āsevito dṛḍhabhūmiḥ ||14||
サトゥ ディールガカーラ ナイランタルヤ サットカーラーダラーセーヴィトー ドルダブーミヒ
修習は、長期間継続して真剣に実習し続けると、堅固な基礎となる。

dṛṣṭa-anuśravika-viṣaya-vitṛṣṇasya vaśīkāra-saṁjṇā vairāgyam ||15||
ドルシュターヌシュラヴィカ ヴィシャヤ ヴィトルシュナッシィヤ ヴァシーカーラ サムジュナー ヴァイラーギャム
見たり聞いたりする対象に欲求をいだかず、意識して心の平静を保つことが離欲(ヴァイラーギャ)である。


tatparaṁ puruṣa-khyāteḥ guṇa-vaitṛṣṇyam ||16||
タットパラム プルシャ キャーテーヘ グナ ヴァイトルシュンニャム
至高の状態はプルシャ(真我)の顕現であり、そのとき、グナは渇きの無い状態になる。

 ※グナ: サトワ(純質)、ラジャス(活動・激しさの質)、タマス(覆い隠す質)の3つの変化作用の質。


vitarka-vicāra-ānanda-asmitā-rupa-anugamāt-saṁprajñātaḥ ||17||
ヴィタルカ ヴィチャーラーナンダ アスミタールーパーヌガマーッ サムプラジュニャータハ
具体的な物質を対象として心を集中する行、見えない微細な感覚対象に集中する行、さらに精妙な至福(歓喜)を観想する行、至福からも離れただ「私であること」を観想する行がある。心に想いの種子が、何か伴なわれている。

<参考>
心の焦点が具体的な対象の上に定まったときに生じるサヴィタルカ・サマーディ。
タンマートラ(微細な感覚対象)に集中して生じるサヴィチャーラ・サマーディ。
さらに精妙な至福(歓喜)を観想する、サアーナンダ・サマーディ。
至福からも離れただ「私であること」を観想する、サアスミター・サマーディ。
これらの4つは、サンプラジュニャータ・サマーディ(有想三昧)と呼ばれている。


virāma-pratyaya-abhyāsa-pūrvaḥ saṁskāra-śeṣo-'nyaḥ ||18||
ヴィラーマ プラティャヤービヤーサ プールヴァス サムスカーラ シェーショーニャハ
想いの種子からも離れるように修習を続けていくと、過去のサンスカーラ(未顕現の印象の種子)も無害化され、別の違った状態となる。

<参考>
この状態は、アサンプラジュニャータ・サマーディ(無想三昧)と呼ばれている。

bhava-pratyayo videha-prakṛti-layānam ||19||
バヴァ プラティャヨー ヴィデーハ プラクルティ ラヤーナム
想いの種子が無害化されないまま肉体を離れた高徳の魂は、その徳質のまま再び輪廻転生する。プラクリティ(根本原質・源)にとけ込んで。

śraddhā-vīrya-smṛti samādhi-prajñā-pūrvaka itareṣām ||20||
シュラッダー ヴィールヤ スムルティ サマーディ プラジュニャー プールヴァカ イタレーシャーム
全面的な信頼、有徳の勇気、神性の記憶、サマーディ(光明との結合)によって、先に述べた別の状態はやってくる。

※別の状態とは、アサンプラジュニャータ・サマーディ(無想三昧)のこと。

tīvra-saṁvegānām-āsannaḥ ||21||
ティーヴラ サムヴェーガーナーム アーサンナハ
集中して修練すると、目的地は近い。

mṛdu-madhya-adhimātratvāt-tato'pi viśeṣaḥ ||22||
ムルドゥ マッディヤ アディマートラトヴァッ タトーピ ヴィシェーシャハ
軽い修練、中程度の修練、集中した修練なのかによっても、違った結果がやってくる。


īśvara-praṇidhānād-vā ||23||
イーシュワラ プラニダーナードヴァー
イーシュワラ(自在神、至高意識)へ、全てを委ねて献身することも、道の一つである。

kleśa karma vipāka-āśayaiḥ-aparāmṛṣṭaḥ puruṣa-viśeṣa īśvaraḥ ||24||
クレーシャ カルマ ヴィパーカ アーシャヤイヒ アパラームリシュタフ プルシャ ヴィシェーシャ イーシュワラハ
欲求し、行為をなし、行為の結果がやってきて、さらにその印象が次の行為の種子になるわけだが、このようなものから永遠に解放されている至高のプルシャ(真我)が、イーシュワラである。

tatra niratiśayaṁ sarvajña-bījam ||25||
タットラ ニラティシャヤム サルヴァジュニャー ビージャム
そこはこの上ない無上の境地であり、全ての源、「全知」の種子だ。

sa eṣa pūrveṣām-api-guruḥ kālena-anavacchedāt ||26||
サ エ-シャ プールヴェーシャーム アピ グルッ カ-レーナーナヴァッチェーダートゥ
太古のグルたちにとってもグルであり、時間の拘束を受けていない。

tasya vācakaḥ praṇavaḥ ||27||
タスィャ ヴァーチャカフ プラナヴァハ
その存在をコトバに表わすと、それはオームという原初のゆらぎである。

taj-japaḥ tad-artha-bhāvanam ||28||
タッジャパハ タッド アルタ バーヴァナム
そのオームのジャパ(反復誦唱)は、その目的地(イーシュワラ)への黙想となる。


tataḥ pratyak-cetana-adhigamo-'py-antarāya-abhavaś-ca ||29||
タタッ プラティヤク チェータナーディガモー アピャンタラーヤ アバヴァシ チャ
これにより、内なる意識が自ら気づきをもたらし、そして障害はなくなっていく。

vyādhi styāna saṁśaya pramāda-ālasya-avirati bhrāntidarśana-alabdha-bhūmikatva-anavasthitatvāni citta-vikṣepāḥ te antarāyāḥ ||30||
ヴャーディ ステャーナ サムシャヤ プラマーダーラスィヤ アヴィラティ ブラーンティダルシャナ アラブダ ブーミカットヴァ アナヴァスティタットヴァーニ チッタ ヴィクシェーパハ テー アンタラーヤハ
病気、無気力、疑念、不注意、怠惰、抑制心の欠如、妄想にとらわれた見方、進歩したレベルから後退すること、情緒の不安定さは、心の清さを失わせ、これの障害になる。

duḥkha-daurmanasya-aṅgamejayatva-śvāsapraśvāsāḥ vikṣepa sahabhuvaḥ ||31||
ドゥッカ ダウルマナスィャ アンガメージャヤットヴァ シュヴァーサプラシュヴァーサーッ ヴィクシェーパ サハブヴァハ
悩み、憂鬱、身体の震え、呼吸の乱れは、気が散漫になっている兆しである。

tat-pratiṣedha-artham-eka-tattva-abhyāsaḥ ||32||
タット プラティシェーダ アールタム エーカ タットヴァ アビヤーサハ
それらを避けて目的地に至るには、一つのやり方で、修練を深く掘り下げ続けることだ。

maitrī karuṇā mudito-pekṣāṇāṁ-sukha-duḥkha puṇya-apuṇya-viṣayāṇāṁ bhāvanātaḥ citta-prasādanam ||33||
マイトリー カルナー ムディトー ペークシャーナーム スッカ ドゥッカ プンニャ -プンニャ ヴィシャヤーナーム バーヴァナータッ チッタ プラサーダナム
慈愛、憐れみ(慈悲心)、喜び、手放しをもって、幸福な人、不幸な人、徳のある人、不徳の人に対処する姿勢を育くめば、心は何にも乱されない平静さを保つ。

pracchardana-vidhāraṇa-ābhyāṁ vā prāṇasya ||34||
プラッチャルダナ ヴィダーラナ アービヤーム ヴァー プラーナスィヤ
吐息および保息の両方に注目し、プラーナを整えることも、心の平静さを保つ。

viṣayavatī vā pravṛtti-rutpannā manasaḥ sthiti nibandhinī ||35||
ヴィシャヤヴァティー ヴァー プラヴルッティ ルトパンナー マナサス スティティ ニバンディニ-     精妙な感覚的体験(霊妙な体験等)に集中することも、想念波動を安定した状態に保つ。

viśokā vā jyotiṣmatī ||36||
ヴィショーカー ヴァー ジョーティシュマティー
あるいは、至福に満ちた無上の「内なる光」に集中することによって。

vītarāga viṣayam vā cittam ||37||
ヴィータラーガ ヴィシャヤム ヴァー チッタム
あるいは、執着から解放されている聖者の心に集中することによって。

svapna-nidrā jñāna-ālambanam vā ||38||
スヴァプナ ニドラー ジュニャーナ アーラムバナム ヴァー
あるいは、夢や睡眠の中で得た体験知を想い出し集中することによって。

yathā-abhimata-dhyānād-vā ||39||
ヤター アビマタ ディヤーナードヴァー
あるいは、惹きつけられ、かつ精神を高めるようなものに瞑想することによって。

paramāṇu parama-mahattva-anto-'sya vaśīkāraḥ ||40||
パラマーヌ パラマ マハットヴァ アントースィヤ ヴァシーカーラハ
根源的な微小原子から巨大な全宇宙に至るまでに、これの習熟度は拡大していく。

kṣīṇa-vṛtter-abhijātasy-eva maṇer-grahītṛ-grahaṇa-grāhyeṣu tatstha-tadañjanatā samāpattiḥ ||41||
クシィーナ ヴルッテーラビジャータスエーヴァ マネール グラヒートル グラハナ グラーヒェーシュ タッツタ タダンジャナター サマーパッティヒ
外向きの心の作用が静まると、心は水晶のような透明な映し鏡になり、知る主体ー知る過程ー知られる対象は、そこにあるものをそのまま映し出し(3つが等しいものになる)、サマーディ(光明との結合)が起こる。

tatra śabdārtha-jñāna-vikalpaiḥ saṁkīrṇā savitarkā samāpattiḥ ||42||
タットラ シャブダールタ ジュニャーナ ヴィカルパイス サムキールナー サヴィタルカー サマーパッティヒ
物質的な何かに集中して瞑想を行じるとき、言葉とその対象物およびその知識が別々にやってくるときのサマーディ(光明)は、サヴィタルカ・サマーディ(有尋三昧)である。

smṛti-pariśuddhau svarūpa-śūnyeva-arthamātra-nirbhāsā nirvitarkā ||43||
スムルティ パリシュッダウ スヴァルーパ シューンニェーヴァールタマートラ ニルバーサー ニルヴィタルカー
物質的な何かに集中して瞑想を行じるときで、心に刻まれた過去の印象が浄化され心が空であると、知られる対象だけがただ輝き現れる。このサマーディ(光明)は、(知る主体と知る過程を経ずに知がやってくる)ニルヴィタルカ・サマーディ(無尋三昧)である。

※過去の印象による反応(思考)を伴わずに生じるサマーディ(光明)。

etayaiva savicārā nirvicārā ca sūkṣma-viṣaya vyākhyātā ||44||
エータヤイヴァ サヴィチャーラー ニルヴィチャーラー チャ スークシュマ ヴィシャヤ ヴィヤーキヤーター
同様にして、精妙な感覚対象に集中して瞑想を行じるときに起こるサマーディ(光明)は、サヴィチャーラ・サマーディ(有伺三昧)とニルヴィチャーラ・サマーディ(無伺三昧)である。

sūkṣma-viṣayatvam-ca-aliṇga paryavasānam ||45||
スークシュマ ヴィシャヤットヴァム チャ アリンガ パルヤヴァサーナム
精妙な要素の性質を対象として行じる瞑想は、やがて最も精妙で未分化な状態の根源力プラクリティにも到達する。

tā eva sabījas-samādhiḥ ||46||
ター エーヴァ サビージャス サマーディヒ
以上のものは、種子あるサマーディ(光明)である。

nirvicāra-vaiśāradye-'dhyātma-prasādaḥ ||47||
ニルヴィチャーラ ヴァイシャーラディエー ディヤートマ プラサーダハ
ニルヴィチャーラ・サマーディがさらに純粋になると、至高の自己が永遠に輝き出す。


ṛtaṁbharā tatra prajñā ||48||
ルタンバラー タットラ プラジュニャー
その状態においては、リタンバラー・プラジュニャー(絶対的真理の英知)が直接やってくる。

śruta-anumāna-prajñā-abhyām-anya-viṣayā viśeṣa-arthatvāt ||49||
シュルターヌマーナ プラジュニャービヤーム アンニャ ヴィシャヤー ヴィシェーシャ アルタットヴァーッ
この状態に達すると、口伝や推論、聖典から学んだ知識とは異なる、それを超えた絶対的真理の英知が直接やってくる。


tajjas-saṁskāro-'nya-saṁskāra pratibandhī ||50||
タッジャス サムスカーローンニャ サムスカーラ プラティバンディー
このサマーディ(光明との結合)状態において生じる印象は、他の潜在する印象をすべて消し去る。


tasyāpi nirodhe sarva-nirodhān-nirbījaḥ samādhiḥ ||51||
タッスィヤーピ ニローデー サルヴァ ニローダーン ニルビージャス サマーディヒ
この微かな印象さえも止み、全てが止滅すると(知る主体もなく知られる対象もない)、完全に因果から解放された、種子無きニルビージャ・サマーディ(無種子三昧)の状態となる。



以上が、パタンジャリのヨーガ・スートラ、第1章サマーディ・パーダである。
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