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「この世とマインド」

2012-03-18 Sun : 真我の探求

「BABAJI - The Divine Himalayan Yogi」より引用。


(著者 Swami Satyeswarananda Giri)


非常にわかりやすく簡潔に「この世とマインド」とは何であるかを語っている、聖者ババジの質疑応答を紹介したい。



The World and the Mind
  この世とマインド


(註)マハー・アヴァター・ババジ(Maha Avatar Babaji、伝承では203年11月30日生)とは、ヒマラヤで隠棲している不老不死の聖者。

マハーは「偉大な」、アヴァターは「神の化身」、ババジは「聖父」を意味する。

ババジは、『あるヨギの自叙伝』の著者、パラマハンサ・ヨガナンダの師匠スリ・ユクテスワ、そのまた師匠ラヒリ・マハサヤのグルである。

彼の姿を見た人の話では、若々しく、肌は健康的な褐色、髪は赤褐色の長髪で、その体は常に金色のオーラに包まれているという。




Q)この世とは、何でしょうか?



MB)この世とは、「ウチなる音:オーム、アーメン、アーミンなど」と、「その音が置き換えられたもの」以外の何ものでもない。



この世は、5つの感覚器官に対応する「対象物」で構成されている。感覚器官の5つの感覚を通して感じ取る 『感覚刺激』をあなたのマインドが認識し、あなたはこの世を見るのである。

このようであるとき、この世はマインド以外の一体何によって構成され得ると言えるだろうか。



この世は、相対的である。認識するマインドにとって、相対的なのだ。


この世を眺めていると、例えば人は、その人が正しいと感じた思いや考えを、それがどれほど真実であるかを他者に証明しようとして、根拠を探りロジックを展開している。しかし、うまくいかないことが多いだろう。なぜなら、まずその考えを思考する自分自身を正しく知らないからだ。




自分自身(知る者)についての真実を知らない探求者にとって、相対界に生じた「ある対象物」に関する理解が、一体どうやって真実であり得ようか?



あなたが、自分(主体)の背後にある真実を完全に知るとき、無知、部分的な知識、理解そのもの(錯覚にとらわれた、これら3つの状態)は、自動的にやむことだろう。そのときにのみ、あなたは完全に、絶対的な知識または真実に確立されうる。



Q)我々の前に、この世が最初に現れたのはいつですか?



MB)あなたが眠りから覚めたとき、真我の光である一筋の光が現れ、そしてその光は、宇宙意思(または宇宙知能)を通り抜ける。



(参考)
  「我は世の光である。」ヨハネによる福音書9:5


その光は、エゴに降りる。そして光はエゴに反射し投影されていく。(訳者註:例えて言うと、エゴがプリズムのような働きをして、透明な光は屈折され、様々な色が表現される。)
 

投影された光(エゴを通過した光)であるが故に、個別の肉体やこの世が現れ(色づく)、そして肉体やこの世は、マインドの様々な作用によって知覚されるのである。


あなたのマインドがこのエゴを通過した光で照らされると、そのマインドはこの世を認識する。そして結果として、あなたはこの世を見るのである。あなたのマインドがこのエゴを通過した光に照らされていないときは、マインドはこの世を認識しない。


実はあなたは、自身のウチなる真我を忘れることによって、この世の対象物を見ているのである。

あなたが五感覚からも退き、真我(サマーディの状態)に深くとどまるとき、この物質世界をあなたは見ることはできないだろう。事実はその通りである。


Q)この世は、本物ですか?



MB)もしあなたが、マインドが存在するかどうかについて本気で探求するならば、マインドは存在しないことを見出すだろう。それは、単に根拠のない説に過ぎない。


もしあなたが、「このマインドとは何か」を知りたいと本気で探求するならば、マインドは思考のかたまり以外の何ものでもないことを見出すだろう。そして思考は、エゴなくして存在することができない。エゴとは、ほとんどの人の非常に親しい友人ではあるが。

 


しかし、もしエゴ氏がどこから来るのかをあなたが知ろうと探求するならば、すると、それ以外の思考は簡単に消えていくことに気づくだろう。なぜなら、思考とは、マインドによって想像されたものだからだ。


したがって、マインド、思考、エゴは、全て根拠のないものであることがわかる。

つまり、実体がないのだ。

あなたが、それらを本当に存在していると受け取めているだけで、自分で自分自身をトラブルに巻き込んでしまっているのである。この世はマインドの投影であり、マインドは実体がないとすると、この世はどうやって実在であり得ようか?



Q)例を挙げて、説明していただけますか?



MB)例えば、映画のスクリーン上で、ある人物が世の中全体の動きを見ているとしよう。

映画上で、この人物が主体であり世の中が客体であるが、スクリーンの背後にあるリアリティ(実在)、つまり本当の主体(知る者)と客体(対象)を識別することが、この人物にできようか。

幻影の人物が幻影の世の中を見ていることが、非常によくわかることだろう。「あなたとこの世の中」とは、正に「映画に登場した人物と世の中」と実質的には同じである。



Q)この世とマインドは、相対的なものであり、また、この世はマインドの投影で、かつこの世とマインドは同義的であるとおっしゃっていますが、これについてコメントしていただけますか?



MB)この世は幻影(マーヤ)であり、また、外側に表現された外観あるいは多様性の表現でしかないので、この世について話すことは有益ではない。


この世とマインドは同じものの別な表現でしかなく、現れては消える。しかし、そのうちの客観的世界(この世)がどのように表現されるかは、単独でそのマインドに依存する。


全く動きのない(現れることもなく消えることもない)、唯一無限なる純粋意識においては、それら二つは分けることができず、現れては消えていく現象に過ぎない。ここでいう純粋意識とは、究極の真我のことである。



Q)人は、どのように真我を実現するでしょうか?



MB)「マインドとは何か」と本気で探求し続けるならば、そのとき自動的に、この世またはマインドから離れるだろう。またその探求をしている間は、思考が消えていることに、あなたは気づくだろう。

最終的に、あなた自身のマインドの背後にある、内側深くに存在する「何か」を、あなたは見出す。

それは、真我の純粋な意識である。



Q)マインドと真我の関係性とは、何でしょうか?



MB)探求において、あなたは、マインドが独立して存在していないというリアリティ(実体)に気づくだろう。

真我は、マインドがなくても存在する。マインドは、真我がなければ存在し得ない。あなたのマインドがそうであるので、あなたにとってのこの世も同様で、真我なく存在し得ないものなのである。




エゴと知性(Intellect)




Q)エゴとは、何ですか?



MB)エゴとは、マインドの別の名前である。



Q)それは、エゴも実在ではないという意味ですか?



MB)その通りだ。例えば、あなたは寝ているとしよう。そのとき、不完全であり無知であるという感覚はない。それと同じように、エゴそれ自体が、不完全であり無知なのである。



Q)エゴの主な特徴は、何でしょうか?



MB)エゴとは、ゴーストのようなもの。独立して存在しないものである。



Q)エゴは、どのように生じるのですか?



MB)エゴは、真我の純粋な意識と物理的な身体の間で生じ、それらの間で活動している。



Q)エゴの真実の姿は、どのようなものでしょうか?



MB)思考が、エゴの対象物だ。エゴは、思考に付着している。例えば、芋虫は決して今掴んでいる葉を次の葉を掴むまで離さないが、これに似ている。

 

エゴは、同じように思考から思考へと移動している。もしあなたが、思考と思考の隙間(瞬間)において、エゴを見つけようとエゴを観察し続けることができれば、あなたは、エゴの真実の姿を理解することができるだろう。

 


驚くに十分であるが、あなたはエゴが非実在であることに気づくだろう。そして、その思考と思考の隙間において無思考であるとき、あなたは、真我の真実の姿を悟るであろう。


この世は、エゴに基づいている。思考と思考の隙間において、あなたがもしエゴは非実在であると気づけば、この世も実は非実在であることに気づくだろう。

 

それと同時に、真我の真実の姿を悟るとき、あなたは究極の真我の純粋な意識の内に、自身を見出す。そしてそれに合わせて、「この世」の代わりに、「純粋意識」をどこにも見ることだろう。




Q)知性(ブッディ)とは、何でしょうか?



MB)知性とは、マインドの別の名前である。実に、マインド(マナス/意志)、エゴ(アハンカーラ/自我意識)、知性(ブッディ)は、「内的心理器官(アンタカラナ)」に対する別の用語である。


(訳注:内的心理器官は、通常4つあるとされる。マナス(意志)、ブッディ(知性)、アハンカーラ(自我意識・エゴ)、チッタ(ハート))



Q)では、知性も不完全なものであるということですか?



MB)そうだ。人々は通常、「私の知性では」等という。つまり、知性は彼らに帰属しているということだ。そのような個人に帰属する知性は、本来の理知ではない。

しかし、知性は、真我なく存在し得ないものだ。


真我は、不変の実在である。一方、知性は、単に一つの事象である。

例えていえば、夢の中で、知性が寝ているとするならば、夢は自然に起こった現象に過ぎないと見なされる。これと同様である。


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