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ジーヴァンムクタ(生前解脱者)

2018-08-24 Fri : 真我の探求

前記事で、聖者シャンカラを紹介した。

彼は、「生前解脱」、すなわち、生きている間に魂の救済・解放は達成できると説いた。

霊的探求の道において達成できる、最終ゴールである。


ゴールについて詳しく知ることは、道を求める探求者の助けとなる。

スワミ・シヴァーナンダ大師がその著書「ブリス・デヴァイン」に書かれたエッセイを訳して紹介しよう。

必要とする人に役立つことを祈ります。 


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ジーヴァンムクタ(生前解脱者)とは


ジーヴァンムクタとは、完全解放された聖者のことだ。彼は生きている間に解放されたのだ。彼はこの世に生きているが、この世に属していない。彼は常に、至高の真我の永遠の至福にふける。彼は、イーシュヴァラ(全能の神の呼び名)、その人である。彼は、地上に存在する一人の神である。

 

ジーヴァンムクタ、あるいは完全開花した賢者とは、純粋な愛、慈悲心、慈愛、この上ない優しさ、隠れた力と強さに満ちている。愛と光沢が、彼の光り輝く目を通して輝く。

 

ジーヴァンムクタは、わずかな利己的関心事も持たず、いかなる状況でも心配、困難、トラブル、苦難、悲しみ、不安が全くない。彼の体に関わる痛み等が彼の顔に表現されているときでも、彼の心はそれと正反対で、決してそれにもがいていない。

彼は、気分の奴隷でない; 彼は、絶えず明朗で、平和だ。

彼の高次の素晴らしさは、完全に開花していることだ; 全ての神の特質は、彼の中に完全に呼び覚まされている。彼の中にあった全ての弱点や制限は、内なる聖なる炎によって焼かれた。

彼は自身の内なる無垢の栄光を、神意識の重要な特質を、自身で祀る。

彼は、至る所で平和と歓びを放散している。

 

真我を実現したヨーギーの本当の偉大さは、言葉に言い表すことはできない。

彼の目は、澄み渡り、安定している。彼の行動は完璧で、神聖だ。彼のスピーチは甘く、短い。そして、人を元気づけ、印象的だ。

彼の歩きぶりは高潔だ。彼は触れるものを浄化をする; 見た目にも慈悲深い。そして、ジェスチャーは啓蒙的である。彼は全知だ; 彼には、直観的な超越的知識と、万物や人々のその核心に対する明瞭な洞察がある。

あなたは、彼の前にいると、深い感性の平安と調和、すばらしい高揚感とインスピレーションを経験するだろう。

 

生前解脱者のしるし


ジーヴァンムクタまたは、完全開花した聖者は、エゴイズム、疑い、恐れ、嘆き悲しみから、完全に解放されている。それらの4つは、その人が完全さを達成したことを示唆する重要なしるしである。

 

ジーヴァンムクタは、完全な満足、揺るぎない心の平安、深い永続する歓びと至福、超感覚的な霊性の知識があり、修行者のあらゆる種類の疑念を取り除く能力を持つ。彼のそばにいるとき、疑いは消えてしまう。


ジーヴァンムクタは、体の欲求にさえ注意を払わない。彼は、死を恐れない。彼は生きようとする願望もない。マーヤ、あるいはプラクリティ(根本自性)は、従順で親切な彼の看護婦だ。

プラクリティは、注意深く彼に付き添う。ボディが必要とする物は、それ自身でやって来る。プラクリティは、彼のために前もってすべてを手配する。これは、彼女の仕事なのだ。

 

バランスの取れた心、平等なビジョン、快楽と苦痛、非難と称賛、熱さと寒さ、成功と失敗のような、正反対の一組に対する無関心、― これらは、ジーヴァンムクタのしるしである。

ジーヴァンムクタは、自然のいかなる変わった出来事にも驚かない。彼らは、決してカッとなることが無い。あるいは怒りの炎が、上方に燃え上がることはない。

ジーヴァンムクタは、いかなる条件下でも動揺しない。騒乱のまっただ中においても迷いがない。

 

生前解脱者の二重の意識


水の中に首まで浸かって立っている人は、二重の経験をする。彼の頭は太陽にさらされている。彼は、熱と寒さの両方を経験する。そのようなことが、ジーヴァンムクタの経験なのだ。彼は二つの要素の意識を持つ。

彼は、ブラフマン(創造原理)の至福を楽しむ。彼は、この世界の経験もする。彼は、二つの言語を知っている人のようである。

 

ちょうど苦い芳香性のアギやオニオンが保存されたポットが、何回か洗浄されたにもかかわらず、ある程度の匂いを発するように、無知の小さな痕跡が、賢者の心にもわずかであるが残っている。ジーヴァンムクタは、サンスカーラ(過去の印象)という形で、体の意識を持つ。それが、彼が飲食する理由だ。低次の欲求を伴う本能的なマインドは破壊されているが、調和的なマインドは、ジーヴァンムクタにおいて消滅していない。

マインドという道具なしに、彼はどうやってこの世界と関係することができるだろうか?

 

世俗的な人と完全開花した聖者との違い


現象的宇宙は、ジーヴァンムクタのビジョンから消え去っていない。ジーヴァンムクタは、世界を心の中の夢のように観ている。水の幻影的性質を理解したあとでも蜃気楼が現れるように、同様に、真我実現を達成したあとでも、この世の幻影的性質を明確に理解したあとでも、この世は、ジーヴァンムクタのために現れる。

しかし、蜃気楼の性質を理解した人が、飲み水を求めて蜃気楼を追いかけることがないように、同様に、ジーヴァンムクタは、世界が彼に現れるけれども、世俗的な人々のように感覚器官が喜ぶ対象物を追い求めない。これが、世俗的な人と完全開花した聖者との違いだ。

 

ジーヴァンムクタがブラフマン(創造原理)、栄光の中の栄光、魂の中の魂に没入しているとき、動くこと(活動すること)は可能ではない。しかし、プララブダ・カルマ(現世生まれてくる原因となったカルマ)とヴィクシェーパ・シャクティ(投影力)の力によって、ブラフマン意識から下り戻るとき、苦しみ悩む魂の叫びに対して愛を注ぎ込む。

彼は、非常に光り輝いていて、慈悲深い。彼は、慈悲と慈愛と平安の大海だ、仏陀やジーザスのように。


広大無辺なビジョン


ジーヴァンムクタは、どこにでもどんな物にも、一つの実在または神を観る。

彼にとって悪者と聖者、金と石、名誉と不名誉の区別はない。実際、全てが自分自身だと観じる。ヘビ、サソリ、虎、熊、ライオンは、彼自身の目、鼻、耳、手、足と同じような部分であると観じるのだ。彼は、花、エーテル、太陽、海、山、空と一つなのだ。

彼は、広大無辺なビジョンと広大無辺な感覚を持つ。

 

三昧の賢者と世の中と関わる賢者


ジーヴァンムクタ、または聖者の暮らし方は、様々だ。ある聖者は、王様のように暮らす。王であったバギラタという聖者は、このような暮らしをした。別の聖者は、乞食のような暮らしをする。ある聖者は、常に瞑想に浸っている。彼は活動しない。話すこともしない。常に隠遁生活をしている。ジャダ・バラタという聖者は、このような暮らしをした。

別の聖者は、忙しく混雑した都会に暮らす。彼は、自身を他者への奉仕に投げ込む。彼は人々と話す。彼は、講義をしたり、宗教的な教室を開いたり、本を書いたり、様々なことをする。聖シャンカラは、このような暮らしをした。

これは、プララブダ・カルマ(現世生まれてくる原因となったカルマ)によるのだ。どの聖者も、彼独自のプララブダ・カルマを持っている。もし全ての聖者が同じ種類の暮らしをし、同じ種類のプララブダ・カルマを持っていたら、この世界は牢獄のようだろう。創造の現れにおいて多様であることが、プラクリティ(根本自性)の本質なのだ。

 

世の中のために活動しようという願望を持ち、この世界で奉仕をするのは、世の中と関わる(ビャーヴァハーラ)賢者。世界から完全に隠遁している賢者は、三昧(サマーディ)の賢者である。

それら2タイプの聖者において、得ている知識は同じだ。しかし、三昧の賢者は、世の中と関わる賢者より、もっと至福を楽しむ。三昧の賢者は、常時ブラフマン意識に没入している人である。彼は名前や形を観ない。この世界は、彼にとって全く消え去っている。彼は、活動することが全くできない。彼はムズブ(最高のカテゴリーの沈黙の聖者)だ。彼はパラマハンサ(神を体験し、実在と非実在の識別を知る者に与えられる称号。意味は偉大な白鳥。)だ。


世の中と関わる賢者は、指を切ったとき痛みを経験する。

しかし三昧の賢者は、足を切断されたとしても、少しも痛みを経験しないだろう。ムルタンのシャムス・タブリエツ(ペルシャのイスラム教スーフィー)は、上記の記述の真実性を証明するような生き方をした例だろう。彼は、皮を剥がされたとき、笑って「アナルハク、アナルハク。」と言った。'アナルハクとは、‘私は、彼(神、創造原理)だ’という意味で、ヒンズー教の‘ソーハム’と一致する。

 

世の中と関わる賢者は、名前や形を観る。

世の中と関わる賢者は、これはヴィシュタ(ビジョン)だ、これは白檀だとわかる; これは愚か者、これは知性の高い人; これは善人、これは悪党、これは正直者と。

しかし、彼は感情に影響されていない。彼は、成功したとき有頂天にならず、失敗したとき落ち込むこともない。彼は、正直者を愛するのでもなく、悪党を憎むのでもない。この意味において、彼はサーマ・ドリシュティ(平等に観る者)、または平等なビジョンの持ち主なのだ。

 

世の中と関わる賢者のケースにおいて、活動しようという欲求は、彼のプララブダ・カルマによるものだ。大工が自分の道具を使うように、彼は彼のボディとマインドを道具として使う。

活動している間、彼は一秒たりともブラフマン意識を失うことはない。彼は、意識の本来の姿(チャイタニア・スヴァルーパ)または純粋意識に、常に確立されている。

 

世の中と関わる賢者は、この世全体を彼自身の内側に観る。何も外側に見ない。あなた方は外側に見ている訳だが。

彼は、神聖なる眼(霊眼)、または全知の眼を通して観る。物理的な目を通してではない。賢者は、力強いレンズ、すなわちアートマン(真我)の眼の助けを借りて、全ての創造の詳細と共に全世界を観る。彼は、人のアストラル体、サンスカーラ(過去の印象)と共にある原因体(魂)、プラーナのオーラ、サイキックオーラ、磁力のオーラなどを観ている。

実務的な知力を持つ世俗的な人にとって、賢者が活動しているときに、どのように物理的宇宙を観ているかを精神的に描写することは大変困難である。

 

ジーヴァンムクタは、どのように生活し活動するか


ジーヴァンムクタは、気まぐれな人間ではない。彼はシャーストラ(ヒンズー教の教義)や社会の規範に束縛されていない。がそれでも、ダルマ(自然法)から外れることはない。

彼が為すことは全て、神聖な教義や聖典に厳しく従っているだろう。彼は、自発的に良いことだけを為す。

熟練したダンサーは、間違ったステップを決して踏まない。ジーヴァンムクタが活動するとき、それと同様である。

 

聖者は、努力なく、間に代理人を置かず、エゴイズムや愛着や欲求なく、活動する。ちょうど子供のように、彼の行動は善でもなく悪でもない。

ジーヴァンムクタは、子供のように行動する。善悪の感覚は、彼の中では自然なことで、宗教的教義に従っているわけではない。

彼は全てのエゴイズムを破壊してしまった。彼はカルマを超越しているし、カルマは彼に触れることができない。彼は、世界を教育するために活動するだろうし、あるいは禁止行為を控えるだろう。

 

ジーヴァンムクタは、世の中の批判を気にしない。彼は襲われたときでさえ、冷静なマインドを保つ。彼は、彼を迫害する人を祝福する。彼は、どこにでも彼自身(真我)だけを観るのだ。

彼のしるし、または特徴は、内側の精神状態だ。それは他者によって認識されたり、見つけられたりが不可能だ。

神が、神の仕事のために彼を利用するのだ。

 

身体的な裸と精神的な裸


ブラフマン意識を得た賢者、またはジーヴァンムクタは、天才である必要はない。彼は雄弁家、話し手、講師や教授である必要はない。

しかし彼は、穏やかで、神聖で、静かである。彼は無口で、沈黙する。彼の沈黙は、すぐれた雄弁さだ。彼は、神聖なる智慧と直観的な知識を持つ。彼の前では、全ての疑いが解かれる。

家庭を持つ人たちは、ジーヴァンムクタの性質を決める際に、間違った判断をする。彼らは、ジーヴァンムクタの外的状況だけを考慮するのだ。教養のある人々でさえ、この事に関しては間違いをしでかす。


サドゥ(世俗を放棄した霊性修行者)は、肉体的に裸かもしれない。彼は何も持っていないかもしれない。彼は、物乞いするボウルの代わりに自分の手を使ったり、木の下で暮らしたりしているかもしれない。彼は森に住んでいるかもしれない。それでも、彼は極悪人かもしれないのだ。彼は、内側にも外側にも愛着を持った、世俗的な人間かもしれない。彼は、アヘン吸飲用の8本の食物を得たとき、喜んで踊り出すかもしれない。彼のマインドは、破壊的で、障害物だらけかもしれないのだ。

一方で、町や都会の雑踏で暮らすが、偉大な紳士の人生を送る人かもしれない。ファッショナブルな洋服を着ているかもしれない。美味いものを食べているかもしれない。それでも、彼は何かに対する愛着や熱望が全くないかもしれないのだ。

聖ラーマヌージャは、贅沢の中に暮らした。真我を実現した人は、象や馬、さらに全ての国王の必要物を持っていても、外的な対象物によって全く影響受けることがないという事例だ。

彼らは、多種多様な活動の中においても、常に真理を研鑽し、本来の姿に定まっている。これは、統合された発展だ。これは、バガヴァット・ギーターの主旨であり、クリシュナ神の中心的な教えである。

 

求められているのは、精神的な裸の状態、すなわち、何も無い空っぽの状態だ。叡智は、純粋な内的状態だ。外的なしるしは、確かな基準ではないのだ。

 

賢者の在り方は、不可思議である。ジーヴァンムクタだけが、ジーヴァンムクタを知ることができる。

バガヴァット・ギーターや様々な本の中において、賢者に関する説明は、全く不適切、不完全、不十分だ。彼の状態は、限定されたマインドによって決して想像できるものではなく、有限な言葉によって説明できるものではない。彼は、自身の無垢なる栄光で輝いている。

 

彼は、ある時は全てを知る人(サルヴァジニャー)のような姿を取り、ある時は無知な人(アジニャーニ)のような姿を取る。彼は、いつブラフマン意識を保持する者として行動するか、いつ馬鹿者のようにふるまうかを知っているのだ。だから、彼を判断してはいけない。

あなたが適切な在り方で、つまり信頼と献身、霊的な渇き(求め)を持って彼に接するならば、かれは最高の知識をあなたに授けるだろう。もしあなたが悪い動機を持って彼に近づくならば、彼は狂った人のようにふるまい、あなたはだまされるかもしれない。その時のあなたの損失は、甚大だ。

 

世界への祝福


ジーヴァンムクタは、世界の維持者だ。彼は、永遠のインスピレーションの源だ。

彼は、退廃していない人々に、神の恩寵が送られるときの具体的な管(チューブ)である。

 

咲いて香りを放ち、周りの空気を浄化する花のように、サダーシヴァ・ブラフマン(高名なヨーギー)、ヤジニャヴァルキャ(ウパニシャッド最大の聖仙)のような偉大な魂は、人々のハートを歓ばせるために、そして彼らを永遠不滅の完全性へと導くために、この世に飛び込んでくるのである。

 

ジーヴァンムクタは、霊的エネルギーの発電所だ。彼は、世界の異なる隅々に、霊的な電流を放射している。彼の前に座ってごらん。あなたの疑念は、疑念自身によってクリアにされるだろう。彼の前では、あなたは喜びや平安の、独特な胸の高鳴りを感じることだろう。

 

ジーヴァンムクタは、知らされていない聖水のように、ただ見られるだけで、ただ触れられるだけで、また彼の名前が敬愛を持って唱えられることで、他者を浄化する。

ある時は、彼は気づかれないままだ。ある時は、幸福を求める人々の明るみに出る。彼は、信心深い献身者から提供された食物を食べるし、彼らの過去と将来の悪や不純物を焼き払う。

 

ジーヴァンムクタ、または聖者は、魂の知識の最終的な源だ。ジーヴァンムクタと一緒のサットサンガ(共に在ること)は、たった1分であろうと、王国の統治者の地位よりはるかに良い。

彼のその存在は、わくわくさせられるし、元気づけられる。

彼のそばにいることを求め、そして進化せよ。信頼と献身を持って、彼に奉仕せよ。

 

聖者は永遠に生きる


聖者は永遠に生きる。彼は、不変不滅の生命を達成した。切望が彼を拷問にかけることはない。罪が彼を穢すことはない。生死の輪廻は彼に触れることはない。痛みや苦難が彼を苦悩させることはない。

 

ジーヴァンムクタは、いつでもどこでも肉体を離れる可能性がある。落ち葉や木の実が、木自体に影響を及ぼさないように、同じように、肉体を落とすことは、アートマン(真我)に影響を及ぼさない。木のように生き残る。

彼のプラーナは、魂が抜け出すときに肉体から他へ分かれていかない。プラーナは、彼のプララブダ・カルマ(すでに実を結び始めた過去の行動の結果)が終了したあと、ブラフマン(創造原理)に溶け込む。彼は、次の誕生から解放されている(再び生まれてくる原因が消滅している)。

 

ジーヴァンムクタは、マインドと物質の拘束から解放されている。彼は全く自由で、完全で、独立している。彼は憎悪、欲望、気がかり、不安、心配から完全に解放されている。

至福の状態、または最終的な解放の状態は、誰でもきっと好きだ。それは、生命の最終ゴールだ。それは、全ての人間の大望の終了だ。

 

生前解脱(ジーヴァンムクティ)という状態は、存在の究極の目的である。この状態には、満ち満ちとした充満がある。全ての欲求は燃やされてしまった。

それは、絶対的な満足の充満した状態だ。これより偉大な利得はない。これより偉大な至福はない。これより偉大な叡智はない。

 

永遠の至福の丘の頂において、ジーヴァンムクタ、または完全開花したヨーギーを、あなたは見ることができる。彼は、集中と絶え間ない苦闘を通して、途方もない高みを登ったのだ。

彼は厳しく厳格な霊性修行を行った。彼は深遠なニディヤーサナ(瞑想)を行った。彼は、眠れない夜を幾度も過ごした。彼は、途中経過の不完全な状態において、長い間、厳しい自己観察と無意識的にする行動(条件付けられた行動)を見張り続けたのだ。

彼は、忍耐と努力を貫いた。彼はたくさんの障害を打破したのだ。彼は、絶望、暗やみ、落ち込みを克服したのだ。

彼は、今や世界における、灯台の光だ。

あなたと同様に、彼が過去において無常のサンサーラ(輪廻)の中で、のたうち回っていたことを、覚えていなさい。

あなたも、その頂に登ることができる。あなたがそうしたいと望む場合に限るが。


om namah shivaya.

om tat sat.

合掌

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