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アートマ・シャトカム(真我六経文) 

2018-07-17 Tue : 真我の探求
「あなたは、誰か?」

大聖者アーディ・シャンカラが8歳の時、正式な出家者となるための導師(グル)を求めて、ナルマダ川のそばを彷徨っていたとき、リシ・ゴヴィンダ・バガヴァットパーダに出会った。
リシ・ゴヴィンダが「あなたは、誰か?」と尋ねると、シャンカラは、次のように答えたという。

大聖者アーディ・シャンカラは、インドの思想家・哲学者であり、ヒンドゥ教の教えの精髄を復興させ、不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダンタ)、梵我一如思想を提唱。
生前解脱が可能であることを説く。真理の正しい知識を得ることによって。

諸説あるが、788年生まれ、820年 32歳没。
ヒマラヤ・ケダルナートに霊廟がある。

両親に長く子供がなく、子供を授かるようにお祈りをしていたら、神様が夢に出来てきて、頭脳明晰だが短命な子供一人と、平凡だがたくさんの子供を得るのと、どちらが良いかと尋ねたという。
両親は、頭脳明晰な一人の子供を選んだので、シャンカラが生まれ、7歳にしてヴェーダの学習を習得したと言われている。
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シャンカラの答えは、経文(シュローカ)となり、広く知れ渡るようになった。

真我六経文アートマ・シャトカム
(または、解脱六経文ニルヴァーナ・シャトカム) 日本語訳

私は、意志や思考ではない。知性ではない。
自我でもない。心(ハート)でもない。
聴覚 触覚ではなく、視覚 味覚 嗅覚器官でもない。
天空でも 大地でもなく、火でも 風でもない。
永遠の至福意識。形なき純粋の実在、それが私だ。 
|1|

プラーナの力(氣力)でなく、体の動きを司る5つの風エネルギーでもない。
7つの体の組織でなく、真我を被う5つの鞘でもない。
発声器官 手 足でなく、排泄器官 生殖器官でもない。
永遠の至福意識。形なき純粋の実在、それが私だ。  
|2|

※5つの風エネルギー:プラーナ、アパーナ、ヴィヤーナ、サマーナ、ウダーナ。
※7つの体の組織:ラサ(栄養液)、ラクタ(血液)、マーンサ(筋肉組織)、メーダ(脂肪組織)、アスティー(骨組織)、マッジャー(骨髄・神経組織)、シュクラ(精液・生殖器官)。
※5つの鞘:食物鞘、プラーナ鞘、マナス鞘、知性鞘、至福鞘。

愛着なく 嫌悪なく、貪欲でなく、錯覚 誤認もない。
プライドなく、他をうらやむこともない。
為すべき義務(ダルマ)なく、金銭欲なく、欲望なく、解脱願望もない。
永遠の至福意識。形なき純粋の実在、それが私だ。  
|3|

高徳でも 不徳でもない。
快 不快にとらわれることなく、喜怒哀楽にも染まらない。
マントラや聖地、ヴェーダ文献や加持祈祷を必要としない。
喜びの行為者でなく、喜びのプロセスでなく、喜びの対象物でもない。
永遠の至福意識。形なき純粋の実在、それが私だ。  
|4|

私は、死を恐れない。なぜなら、死はないから。
生まれによる階級もない。
真実の自己から離れることなく、この実存に疑いはない。
誕生を基盤とした識別も持たないゆえ、
父母なく、誕生もない。
血縁関係はなく、親友関係はなく、師弟関係もない。
永遠の至福意識。形なき純粋の実在、それが私だ。  
|5|

私は、二元性を越えている。
属性を持たず、形を持たない。
全能であり、偏在であり、全ての人の感覚器官は私の現れである。
この世にも 解脱にも執着はなく、願望も生じない。
永遠の至福意識。形なき純粋の実在、それが私だ。  
|6|


<サンスクリット>
      manobuddhyahaṅkāra cittāni nāhaṃ
      na ca śrotrajihve na ca ghrāṇanetre
      na ca vyoma bhūmir na tejo na vāyuḥ
      cidānandarūpaḥ śivo'ham śivo'ham |1|

マノー ブッディヤーハンカーラ チッターニ ナーハム
ナ チャ シュロートラ ジフヴェー ナ チャ グラーナネートレ
ナ チャ ヴィヨーマ ブーミル ナ テージョー ナ ヴァーユフ
チダーナンダルーパハ シヴォーハム シヴォーハム 

      na ca prāṇasaṅjño na vai pañcavāyuḥ
      na vā saptadhātur na vā pañcakośaḥ
      na vākpāṇipādau na copasthapāyu
      cidānandarūpaḥ śivo'ham śivo'ham |2|

ナチャ プラーナサンジュニョー ナヴァイ パンチャヴァーユフ
ナヴァー サプタダートゥル ナヴァー パンチャコーシャハ
ナ ヴァークパーニパーダゥ ナ チョーパスタパーユ
チダーナンダルーパハ シヴォーハム シヴォーハム 

      na me dveṣarāgau na me lobhamohau
      mado naiva me naiva mātsaryabhāvaḥ
      na dharmo na cārtho na kāmo na mokṣaḥ
      cidānandarūpaḥ śivo'ham śivo'ham |3|
      
ナメー ドヴェーシャラーガウ ナメー ローバモーハウ
マドー ナイヴァ メー ナイヴァ マーツァルヤバーヴァハ
ナ ダルモー ナ チャールトー ナ カーモー ナ モークシャハ
チダーナンダルーパハ シヴォーハム シヴォーハム 

      na puṇyaṃ na pāpaṃ na saukhyaṃ na duhkhaṃ
      na mantro na tīrthaṃ na vedā na yajña
      ahaṃ bhojanaṃ naiva bhojyaṃ na bhoktā
      cidānandarūpaḥ śivo'ham śivo'ham  |4|

ナ プンニャム ナ パーパム ナ サウキャム ナ ドゥッカム
ナ マントロー ナ ティールタム ナ ヴェーダー ナ ヤジュニャ
アハム ボージャナム ナイヴァ ボージャム ナ ボークター
チダーナンダルーパハ シヴォーハム シヴォーハム

      na me mṛtyuśaṅkā na me jātibhedaḥ
      pitā naiva me naiva mātā na janmaḥ
      na bandhur na mitraṃ gurunaiva śiṣyaḥ
      cidānandarūpaḥ śivo'ham śivo'ham  |5|

ナメー ムルティユシャンカー ナメー ジャーティベーダハ
ピター ナイヴァ メー ナイヴァ マーター ナ ジャンマハ
ナ バンドゥル ナ ミトラム グル ナイヴァ シィシャハ
チダーナンダルーパハ シヴォーハム シヴォーハム

      ahaṃ nirvikalpo nirākāra rūpo
      vibhutvā ca sarvatra sarvendriyāṇaṃ
      na cāsangata naiva muktir na meyaḥ
      cidānandarūpaḥ śivo'ham śivo'ham  |6|

アハム ニヴィカルポー ニラーカーラ ルーポー
ヴィブトヴァ チャ サルヴァトラ サルヴェーンドリヤーナム
ナ チャーサンガタ ナイヴァ ムクティル ナ メーヤハ
チダーナンダルーパハ シヴォーハム シヴォーハム


ニルヴァーナ・シャトカム(youtube)
https://www.youtube.com/watch?v=7FZFvFWztOA

日本語もサンスクリットも、例え意味がわからなくても、正しく発音することによって、音が効果を生み出す力がある言語である。

毎日唱えてみる功徳は、計り知れない…。
合掌
om namah shivaya.


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ジーヴァンムクタ(生前解脱者)

2018-08-24 Fri : 真我の探求

前記事で、聖者シャンカラを紹介した。

彼は、「生前解脱」、すなわち、生きている間に魂の救済・解放は達成できると説いた。

霊的探求の道において達成できる、最終ゴールである。


ゴールについて詳しく知ることは、道を求める探求者の助けとなる。

スワミ・シヴァーナンダ大師がその著書「ブリス・デヴァイン」に書かれたエッセイを訳して紹介しよう。

必要とする人に役立つことを祈ります。 


   Bliss_Divine_of_swami_Sivanandaji_convert_20180824130219.jpg 

 

ジーヴァンムクタ(生前解脱者)とは


ジーヴァンムクタとは、完全解放された聖者のことだ。彼は生きている間に解放されたのだ。彼はこの世に生きているが、この世に属していない。彼は常に、至高の真我の永遠の至福にふける。彼は、イーシュヴァラ(全能の神の呼び名)、その人である。彼は、地上に存在する一人の神である。

 

ジーヴァンムクタ、あるいは完全開花した賢者とは、純粋な愛、慈悲心、慈愛、この上ない優しさ、隠れた力と強さに満ちている。愛と光沢が、彼の光り輝く目を通して輝く。

 

ジーヴァンムクタは、わずかな利己的関心事も持たず、いかなる状況でも心配、困難、トラブル、苦難、悲しみ、不安が全くない。彼の体に関わる痛み等が彼の顔に表現されているときでも、彼の心はそれと正反対で、決してそれにもがいていない。

彼は、気分の奴隷でない; 彼は、絶えず明朗で、平和だ。

彼の高次の素晴らしさは、完全に開花していることだ; 全ての神の特質は、彼の中に完全に呼び覚まされている。彼の中にあった全ての弱点や制限は、内なる聖なる炎によって焼かれた。

彼は自身の内なる無垢の栄光を、神意識の重要な特質を、自身で祀る。

彼は、至る所で平和と歓びを放散している。

 

真我を実現したヨーギーの本当の偉大さは、言葉に言い表すことはできない。

彼の目は、澄み渡り、安定している。彼の行動は完璧で、神聖だ。彼のスピーチは甘く、短い。そして、人を元気づけ、印象的だ。

彼の歩きぶりは高潔だ。彼は触れるものを浄化をする; 見た目にも慈悲深い。そして、ジェスチャーは啓蒙的である。彼は全知だ; 彼には、直観的な超越的知識と、万物や人々のその核心に対する明瞭な洞察がある。

あなたは、彼の前にいると、深い感性の平安と調和、すばらしい高揚感とインスピレーションを経験するだろう。

 

生前解脱者のしるし


ジーヴァンムクタまたは、完全開花した聖者は、エゴイズム、疑い、恐れ、嘆き悲しみから、完全に解放されている。それらの4つは、その人が完全さを達成したことを示唆する重要なしるしである。

 

ジーヴァンムクタは、完全な満足、揺るぎない心の平安、深い永続する歓びと至福、超感覚的な霊性の知識があり、修行者のあらゆる種類の疑念を取り除く能力を持つ。彼のそばにいるとき、疑いは消えてしまう。


ジーヴァンムクタは、体の欲求にさえ注意を払わない。彼は、死を恐れない。彼は生きようとする願望もない。マーヤ、あるいはプラクリティ(根本自性)は、従順で親切な彼の看護婦だ。

プラクリティは、注意深く彼に付き添う。ボディが必要とする物は、それ自身でやって来る。プラクリティは、彼のために前もってすべてを手配する。これは、彼女の仕事なのだ。

 

バランスの取れた心、平等なビジョン、快楽と苦痛、非難と称賛、熱さと寒さ、成功と失敗のような、正反対の一組に対する無関心、― これらは、ジーヴァンムクタのしるしである。

ジーヴァンムクタは、自然のいかなる変わった出来事にも驚かない。彼らは、決してカッとなることが無い。あるいは怒りの炎が、上方に燃え上がることはない。

ジーヴァンムクタは、いかなる条件下でも動揺しない。騒乱のまっただ中においても迷いがない。

 

生前解脱者の二重の意識


水の中に首まで浸かって立っている人は、二重の経験をする。彼の頭は太陽にさらされている。彼は、熱と寒さの両方を経験する。そのようなことが、ジーヴァンムクタの経験なのだ。彼は二つの要素の意識を持つ。

彼は、ブラフマン(創造原理)の至福を楽しむ。彼は、この世界の経験もする。彼は、二つの言語を知っている人のようである。

 

ちょうど苦い芳香性のアギやオニオンが保存されたポットが、何回か洗浄されたにもかかわらず、ある程度の匂いを発するように、無知の小さな痕跡が、賢者の心にもわずかであるが残っている。ジーヴァンムクタは、サンスカーラ(過去の印象)という形で、体の意識を持つ。それが、彼が飲食する理由だ。低次の欲求を伴う本能的なマインドは破壊されているが、調和的なマインドは、ジーヴァンムクタにおいて消滅していない。

マインドという道具なしに、彼はどうやってこの世界と関係することができるだろうか?

 

世俗的な人と完全開花した聖者との違い


現象的宇宙は、ジーヴァンムクタのビジョンから消え去っていない。ジーヴァンムクタは、世界を心の中の夢のように観ている。水の幻影的性質を理解したあとでも蜃気楼が現れるように、同様に、真我実現を達成したあとでも、この世の幻影的性質を明確に理解したあとでも、この世は、ジーヴァンムクタのために現れる。

しかし、蜃気楼の性質を理解した人が、飲み水を求めて蜃気楼を追いかけることがないように、同様に、ジーヴァンムクタは、世界が彼に現れるけれども、世俗的な人々のように感覚器官が喜ぶ対象物を追い求めない。これが、世俗的な人と完全開花した聖者との違いだ。

 

ジーヴァンムクタがブラフマン(創造原理)、栄光の中の栄光、魂の中の魂に没入しているとき、動くこと(活動すること)は可能ではない。しかし、プララブダ・カルマ(現世生まれてくる原因となったカルマ)とヴィクシェーパ・シャクティ(投影力)の力によって、ブラフマン意識から下り戻るとき、苦しみ悩む魂の叫びに対して愛を注ぎ込む。

彼は、非常に光り輝いていて、慈悲深い。彼は、慈悲と慈愛と平安の大海だ、仏陀やジーザスのように。


広大無辺なビジョン


ジーヴァンムクタは、どこにでもどんな物にも、一つの実在または神を観る。

彼にとって悪者と聖者、金と石、名誉と不名誉の区別はない。実際、全てが自分自身だと観じる。ヘビ、サソリ、虎、熊、ライオンは、彼自身の目、鼻、耳、手、足と同じような部分であると観じるのだ。彼は、花、エーテル、太陽、海、山、空と一つなのだ。

彼は、広大無辺なビジョンと広大無辺な感覚を持つ。

 

三昧の賢者と世の中と関わる賢者


ジーヴァンムクタ、または聖者の暮らし方は、様々だ。ある聖者は、王様のように暮らす。王であったバギラタという聖者は、このような暮らしをした。別の聖者は、乞食のような暮らしをする。ある聖者は、常に瞑想に浸っている。彼は活動しない。話すこともしない。常に隠遁生活をしている。ジャダ・バラタという聖者は、このような暮らしをした。

別の聖者は、忙しく混雑した都会に暮らす。彼は、自身を他者への奉仕に投げ込む。彼は人々と話す。彼は、講義をしたり、宗教的な教室を開いたり、本を書いたり、様々なことをする。聖シャンカラは、このような暮らしをした。

これは、プララブダ・カルマ(現世生まれてくる原因となったカルマ)によるのだ。どの聖者も、彼独自のプララブダ・カルマを持っている。もし全ての聖者が同じ種類の暮らしをし、同じ種類のプララブダ・カルマを持っていたら、この世界は牢獄のようだろう。創造の現れにおいて多様であることが、プラクリティ(根本自性)の本質なのだ。

 

世の中のために活動しようという願望を持ち、この世界で奉仕をするのは、世の中と関わる(ビャーヴァハーラ)賢者。世界から完全に隠遁している賢者は、三昧(サマーディ)の賢者である。

それら2タイプの聖者において、得ている知識は同じだ。しかし、三昧の賢者は、世の中と関わる賢者より、もっと至福を楽しむ。三昧の賢者は、常時ブラフマン意識に没入している人である。彼は名前や形を観ない。この世界は、彼にとって全く消え去っている。彼は、活動することが全くできない。彼はムズブ(最高のカテゴリーの沈黙の聖者)だ。彼はパラマハンサ(神を体験し、実在と非実在の識別を知る者に与えられる称号。意味は偉大な白鳥。)だ。


世の中と関わる賢者は、指を切ったとき痛みを経験する。

しかし三昧の賢者は、足を切断されたとしても、少しも痛みを経験しないだろう。ムルタンのシャムス・タブリエツ(ペルシャのイスラム教スーフィー)は、上記の記述の真実性を証明するような生き方をした例だろう。彼は、皮を剥がされたとき、笑って「アナルハク、アナルハク。」と言った。'アナルハクとは、‘私は、彼(神、創造原理)だ’という意味で、ヒンズー教の‘ソーハム’と一致する。

 

世の中と関わる賢者は、名前や形を観る。

世の中と関わる賢者は、これはヴィシュタ(ビジョン)だ、これは白檀だとわかる; これは愚か者、これは知性の高い人; これは善人、これは悪党、これは正直者と。

しかし、彼は感情に影響されていない。彼は、成功したとき有頂天にならず、失敗したとき落ち込むこともない。彼は、正直者を愛するのでもなく、悪党を憎むのでもない。この意味において、彼はサーマ・ドリシュティ(平等に観る者)、または平等なビジョンの持ち主なのだ。

 

世の中と関わる賢者のケースにおいて、活動しようという欲求は、彼のプララブダ・カルマによるものだ。大工が自分の道具を使うように、彼は彼のボディとマインドを道具として使う。

活動している間、彼は一秒たりともブラフマン意識を失うことはない。彼は、意識の本来の姿(チャイタニア・スヴァルーパ)または純粋意識に、常に確立されている。

 

世の中と関わる賢者は、この世全体を彼自身の内側に観る。何も外側に見ない。あなた方は外側に見ている訳だが。

彼は、神聖なる眼(霊眼)、または全知の眼を通して観る。物理的な目を通してではない。賢者は、力強いレンズ、すなわちアートマン(真我)の眼の助けを借りて、全ての創造の詳細と共に全世界を観る。彼は、人のアストラル体、サンスカーラ(過去の印象)と共にある原因体(魂)、プラーナのオーラ、サイキックオーラ、磁力のオーラなどを観ている。

実務的な知力を持つ世俗的な人にとって、賢者が活動しているときに、どのように物理的宇宙を観ているかを精神的に描写することは大変困難である。

 

ジーヴァンムクタは、どのように生活し活動するか


ジーヴァンムクタは、気まぐれな人間ではない。彼はシャーストラ(ヒンズー教の教義)や社会の規範に束縛されていない。がそれでも、ダルマ(自然法)から外れることはない。

彼が為すことは全て、神聖な教義や聖典に厳しく従っているだろう。彼は、自発的に良いことだけを為す。

熟練したダンサーは、間違ったステップを決して踏まない。ジーヴァンムクタが活動するとき、それと同様である。

 

聖者は、努力なく、間に代理人を置かず、エゴイズムや愛着や欲求なく、活動する。ちょうど子供のように、彼の行動は善でもなく悪でもない。

ジーヴァンムクタは、子供のように行動する。善悪の感覚は、彼の中では自然なことで、宗教的教義に従っているわけではない。

彼は全てのエゴイズムを破壊してしまった。彼はカルマを超越しているし、カルマは彼に触れることができない。彼は、世界を教育するために活動するだろうし、あるいは禁止行為を控えるだろう。

 

ジーヴァンムクタは、世の中の批判を気にしない。彼は襲われたときでさえ、冷静なマインドを保つ。彼は、彼を迫害する人を祝福する。彼は、どこにでも彼自身(真我)だけを観るのだ。

彼のしるし、または特徴は、内側の精神状態だ。それは他者によって認識されたり、見つけられたりが不可能だ。

神が、神の仕事のために彼を利用するのだ。

 

身体的な裸と精神的な裸


ブラフマン意識を得た賢者、またはジーヴァンムクタは、天才である必要はない。彼は雄弁家、話し手、講師や教授である必要はない。

しかし彼は、穏やかで、神聖で、静かである。彼は無口で、沈黙する。彼の沈黙は、すぐれた雄弁さだ。彼は、神聖なる智慧と直観的な知識を持つ。彼の前では、全ての疑いが解かれる。

家庭を持つ人たちは、ジーヴァンムクタの性質を決める際に、間違った判断をする。彼らは、ジーヴァンムクタの外的状況だけを考慮するのだ。教養のある人々でさえ、この事に関しては間違いをしでかす。


サドゥ(世俗を放棄した霊性修行者)は、肉体的に裸かもしれない。彼は何も持っていないかもしれない。彼は、物乞いするボウルの代わりに自分の手を使ったり、木の下で暮らしたりしているかもしれない。彼は森に住んでいるかもしれない。それでも、彼は極悪人かもしれないのだ。彼は、内側にも外側にも愛着を持った、世俗的な人間かもしれない。彼は、アヘン吸飲用の8本の食物を得たとき、喜んで踊り出すかもしれない。彼のマインドは、破壊的で、障害物だらけかもしれないのだ。

一方で、町や都会の雑踏で暮らすが、偉大な紳士の人生を送る人かもしれない。ファッショナブルな洋服を着ているかもしれない。美味いものを食べているかもしれない。それでも、彼は何かに対する愛着や熱望が全くないかもしれないのだ。

聖ラーマヌージャは、贅沢の中に暮らした。真我を実現した人は、象や馬、さらに全ての国王の必要物を持っていても、外的な対象物によって全く影響受けることがないという事例だ。

彼らは、多種多様な活動の中においても、常に真理を研鑽し、本来の姿に定まっている。これは、統合された発展だ。これは、バガヴァット・ギーターの主旨であり、クリシュナ神の中心的な教えである。

 

求められているのは、精神的な裸の状態、すなわち、何も無い空っぽの状態だ。叡智は、純粋な内的状態だ。外的なしるしは、確かな基準ではないのだ。

 

賢者の在り方は、不可思議である。ジーヴァンムクタだけが、ジーヴァンムクタを知ることができる。

バガヴァット・ギーターや様々な本の中において、賢者に関する説明は、全く不適切、不完全、不十分だ。彼の状態は、限定されたマインドによって決して想像できるものではなく、有限な言葉によって説明できるものではない。彼は、自身の無垢なる栄光で輝いている。

 

彼は、ある時は全てを知る人(サルヴァジニャー)のような姿を取り、ある時は無知な人(アジニャーニ)のような姿を取る。彼は、いつブラフマン意識を保持する者として行動するか、いつ馬鹿者のようにふるまうかを知っているのだ。だから、彼を判断してはいけない。

あなたが適切な在り方で、つまり信頼と献身、霊的な渇き(求め)を持って彼に接するならば、かれは最高の知識をあなたに授けるだろう。もしあなたが悪い動機を持って彼に近づくならば、彼は狂った人のようにふるまい、あなたはだまされるかもしれない。その時のあなたの損失は、甚大だ。

 

世界への祝福


ジーヴァンムクタは、世界の維持者だ。彼は、永遠のインスピレーションの源だ。

彼は、退廃していない人々に、神の恩寵が送られるときの具体的な管(チューブ)である。

 

咲いて香りを放ち、周りの空気を浄化する花のように、サダーシヴァ・ブラフマン(高名なヨーギー)、ヤジニャヴァルキャ(ウパニシャッド最大の聖仙)のような偉大な魂は、人々のハートを歓ばせるために、そして彼らを永遠不滅の完全性へと導くために、この世に飛び込んでくるのである。

 

ジーヴァンムクタは、霊的エネルギーの発電所だ。彼は、世界の異なる隅々に、霊的な電流を放射している。彼の前に座ってごらん。あなたの疑念は、疑念自身によってクリアにされるだろう。彼の前では、あなたは喜びや平安の、独特な胸の高鳴りを感じることだろう。

 

ジーヴァンムクタは、知らされていない聖水のように、ただ見られるだけで、ただ触れられるだけで、また彼の名前が敬愛を持って唱えられることで、他者を浄化する。

ある時は、彼は気づかれないままだ。ある時は、幸福を求める人々の明るみに出る。彼は、信心深い献身者から提供された食物を食べるし、彼らの過去と将来の悪や不純物を焼き払う。

 

ジーヴァンムクタ、または聖者は、魂の知識の最終的な源だ。ジーヴァンムクタと一緒のサットサンガ(共に在ること)は、たった1分であろうと、王国の統治者の地位よりはるかに良い。

彼のその存在は、わくわくさせられるし、元気づけられる。

彼のそばにいることを求め、そして進化せよ。信頼と献身を持って、彼に奉仕せよ。

 

聖者は永遠に生きる


聖者は永遠に生きる。彼は、不変不滅の生命を達成した。切望が彼を拷問にかけることはない。罪が彼を穢すことはない。生死の輪廻は彼に触れることはない。痛みや苦難が彼を苦悩させることはない。

 

ジーヴァンムクタは、いつでもどこでも肉体を離れる可能性がある。落ち葉や木の実が、木自体に影響を及ぼさないように、同じように、肉体を落とすことは、アートマン(真我)に影響を及ぼさない。木のように生き残る。

彼のプラーナは、魂が抜け出すときに肉体から他へ分かれていかない。プラーナは、彼のプララブダ・カルマ(すでに実を結び始めた過去の行動の結果)が終了したあと、ブラフマン(創造原理)に溶け込む。彼は、次の誕生から解放されている(再び生まれてくる原因が消滅している)。

 

ジーヴァンムクタは、マインドと物質の拘束から解放されている。彼は全く自由で、完全で、独立している。彼は憎悪、欲望、気がかり、不安、心配から完全に解放されている。

至福の状態、または最終的な解放の状態は、誰でもきっと好きだ。それは、生命の最終ゴールだ。それは、全ての人間の大望の終了だ。

 

生前解脱(ジーヴァンムクティ)という状態は、存在の究極の目的である。この状態には、満ち満ちとした充満がある。全ての欲求は燃やされてしまった。

それは、絶対的な満足の充満した状態だ。これより偉大な利得はない。これより偉大な至福はない。これより偉大な叡智はない。

 

永遠の至福の丘の頂において、ジーヴァンムクタ、または完全開花したヨーギーを、あなたは見ることができる。彼は、集中と絶え間ない苦闘を通して、途方もない高みを登ったのだ。

彼は厳しく厳格な霊性修行を行った。彼は深遠なニディヤーサナ(瞑想)を行った。彼は、眠れない夜を幾度も過ごした。彼は、途中経過の不完全な状態において、長い間、厳しい自己観察と無意識的にする行動(条件付けられた行動)を見張り続けたのだ。

彼は、忍耐と努力を貫いた。彼はたくさんの障害を打破したのだ。彼は、絶望、暗やみ、落ち込みを克服したのだ。

彼は、今や世界における、灯台の光だ。

あなたと同様に、彼が過去において無常のサンサーラ(輪廻)の中で、のたうち回っていたことを、覚えていなさい。

あなたも、その頂に登ることができる。あなたがそうしたいと望む場合に限るが。


om namah shivaya.

om tat sat.

合掌

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聖者ダッタトレーヤ

2019-01-16 Wed : インドの聖者
聖者ダッタトレーヤ

偉大な聖仙アトリの妻であるアナスヤは、ブラフマー神、ヴィシュヌ神、シヴァ神に等しいような息子を得るという願いを叶えるために、非常に厳しいタパス(苦行)を長い間行じていた。
神に等しい夫にひたすら仕える、偉大な女性アナスヤの貞節の美徳と長期の厳しいタパスの功徳により、三神に等しいような息子を神秘的に授かった。

ダッタとは、天賦の顕れを意味し、トレーヤとは3つを意味する。
三神の顕れという、そのものを表す名だ。

一つの胴体に、3つの顔、6本の腕、2本の足を持つ神様だ。
三神のエネルギー光線を放ち、偉大な賢者でもあり、
「アヴァドゥータ・ギーター」というヴェーダンタの真理や奥義、真我実現の直接的な体験を表したウタを著した。
完全に解放された魂である。

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・ダッタトレーヤのそばには、どんな願いでも叶えるカーマデーヌという雌牛が必ずいる。
この牛は、母なる地球と正義を象徴している。

・また、必ず一緒にいる4匹の犬は、4つのヴェーダ(知識)を象徴している。

・右手に持つトリシュールは、彼が3つのグナ(この世を構成する質)を超越した存在であることを象徴している。

・左手に持つホラ貝は、普遍の原初音オームを象徴している。全ての創造の根源に存在する波動だ。
空の元素を象徴している。

・右手に持つスダルシャナ・チャクラ(円盤)は、彼が時間の縛りのない状態を生き、「過去現在未来」という時間を超越した存在であることを象徴している。
風の元素の象徴でもある。

・右手に持つ棍棒は、火の元素の象徴だ。

・左手に持つカマンダルという入れ物(水を飲む時や施しを乞う時に使う)は、水の元素の象徴だ。

・左手に持つ蓮の花は、地の元素の象徴だ。

220px-Ravi_Varma-Dattatreya.jpg 


このように描かれるダッタトレーヤには、24のグルがいると言われている。

(神話ー聖者ダッタトレーヤの24のグル)
   スワミ・シヴァーナンダ大師の「Guru Tattva」より

あるとき、ダッタトレーヤが幸せに満ちて森の中を歩き回っているとき、ヤドゥ王に出会った。ヤドゥ王は、ダッタトレーヤがとても幸せそうに見えたので、幸せの秘密と彼のグルの名前を尋ねた。

ダッタトレーヤは答えて言った。
「内なる真我のみが、私のグルである。 
しかし、24のものから智慧を学んだので、それ故にそれらは私のグルである。」

ダッタトレーヤは、24のグルの名前を述べて、それぞれから学んだ智慧を説明した。
1.大地、2.水、3.風、4.火、5.空、6.月、7.太陽、8.鳩、9.ニシキヘビ、10.海、11.蛾、12.蜂、13.蜂蜜を集める人、14.象、15.鹿、16.魚、17.ダンサー・ピンガラ、18.ワタリガラス、19.赤ちゃん、20.未婚女性、21.蛇、22.弓矢を作る職人、23.蜘蛛、24.カブトムシ

1.大地から、忍耐と他者に良いことをすることを学んだ。なぜなら大地は、人類がその表面で犯す全ての傷に耐えながら、それでも穀物や木々を生産して、人類に良いことを与えている。

2.水から、純粋の質を学んだ。純粋な水が他を浄めるのと同じように、純粋で、利己心、性欲、エゴイズム、怒り、強欲などから自由になった聖者は、彼と触れ合うためにやってきた全ての人々を浄めることができるということを。

3.風は、様々な対象物から対象物へと移動している。しかし風は、そのどの対象物にも愛着を持つことがない。そこで、風から学んだ。私が大勢の人と移動していようとも、愛着を持たずに風のようにあれば良いと。

4.火は煌々と燃え上がる。故に、聖者も火のように、知識とタパス(苦行)の光輝で煌々と燃え上がっている必要がある。

5.空は、その中に風、星、雲たちを存在させているが、空はそのどれとも接触していない。これにより、空から学んだ。アートマン(真我)は、全てに浸透しているものだが、それでもどの対象物とも接触していないということを。

6.月はいつも完全だが、月に写る地球の影の変化によって、減じていく月と満ちていく月が現れている。この現象から学んだ。アートマン(真我)は、常に完全で不変であるが、限定的な付属物(エゴ、知性、マインド、ボディ)がアートマンに影を投げかけているだけだと。

7.太陽は、色々な水の壷に映って、色々違った光を反射をする。同様にブラフマンは、マインドを通過した光の反射によって生じた付属物(ボディ)のために、色々違った顕れをする。この事を太陽から学んだ。

8.ある時、若い小鳩たちを連れた一対の鳩を観た。猟師は網をかけて、小鳩たちを摑まえた。母鳩は、子供たちに大変な愛着を持っていたので、生命の危険も顧みず、網に飛び込んでいき、摑まえられた。雄鳩は、雌鳩に愛着を持っていたので、雄鳩も網に落ちていき、摑まえられた。このことから、愛着が束縛の原因であることを学んだ。

9.ニシキヘビは、食べ物のために動き回らない。なんであろうと得たもので満足し、一カ所にいる。この事から学んだ。何を食べようかということにマインドを使わず、何であれ頂いたものを食べて満足することにしようと。

10.海は、何百という川が流れ込んでいるのに、動かない。同様に、賢者はあらゆる誘惑や困難、トラブルの中にあっても、不動である必要がある。これが、海から学んだレッスンだ。

11.蛾は、火の明るさに夢中になって、火に落ちて焼かれてしまう。同様に、情熱的な男性は美しい女性に恋をして、最後に悲しみを経験する。視覚を制御し、マインドを真我にしっかり固定することが、蛾から学んだレッスンだ。

12.黒いミツバチが、色々違う花から蜂蜜を吸い、また1本の花だけから吸わないようにしていた。それで、私も施しの食べ物をもらうとき、1つの家から少しだけ、別の家からも少しだけを頂き、空腹を満足させることにしよう。そうすれば、家庭を持つ人たちの負担にならずに済む。

13.蜂は、非常に苦労して蜂蜜を集める。しかし、蜂蜜を集める人は、簡単にそれを収穫する。同様に、人々は、富やその他のものを非常に苦労して貯め込むが、死神がやって来た時、それらを直ちに手放し、旅立たなくてはならない。このことから、ものを貯め込むことは無益だと学んだ。

14.雄の象が、性欲によって盲目となり、紙で作られた雌象に突進し、草の下に仕掛けてあった罠に落ちてしまった。象は捕まり、鎖につながれ、突き棒で拷問される。同様に、情熱的な男性は、女性の罠に落ち、最後に悲しみを経験する。故に、性欲は落とす必要がある。この事を象から学んだ。

15.鹿は、音楽を愛するので、ハンターによって音楽に誘われ、罠に摑まえられた。同様に、淫らな女性の音楽によって魅惑された男性は、破壊に至るだろう。卑猥な歌には耳を貸すべきではない。この事を鹿から学んだ。

16.魚は、食物を常に物色しているが故に、釣りの餌に簡単に引っかかってしまう。同様に、食物に強い欲求を持っている人は、味覚が最上位に立って彼自身を支配しているので、自身の独立性を失っており、簡単に不幸を経験する。したがって、食物に対する貪欲さは、破壊される必要がある。この事を魚から学んだ。

17.ピンガラというダンサーが、ヴィデーハという町にいた。ある夜、彼女は顧客を探すことに疲れ、絶望的になった。しかし彼女は、自分がその夜持っていたもので満足をした。すると、安眠することができた。この事から、望み(願望)を放棄することが満足を導くということを学んだ。

18.ワタリガラス(普通のカラスより大型)が肉片を拾った。ワタリガラスは、他の鳥たちから追いかけられ攻撃された。ワタリガラスは、肉片を落として、平和と休息を達成した。同様に、全ての人が感覚的な楽しみに夢中になるとき、結果としてトラブルと惨めさを経験するが、その感覚的な楽しみを捨てると、この鳥のように幸せでいられる。この事をワタリガラスから学んだ。

19.赤ちゃんは、乳を吸っている時、全ての注意や心配・不安から解放されている。そして、いつも陽気である。赤ちゃんから陽気であることの徳を学んだ。

20.ある未婚女性の両親は、彼女の適切な花婿を探すために出かけていた。女の子は、家で一人だった。両親が不在の間に、同じように結婚相手を探す人たちが、彼女を見るために家にやって来た。彼女は一行を自分でもてなすことにした。
米の脱穀をするために中に入ったが、脱穀の作業をすると、両手にはめているガラスのバングル(腕輪)がジャラジャラと大きな音を立てた。賢い女の子は考えた。「このバングルの音によって、一行は私が脱穀していると気づき、この家は使用人に脱穀させることができないような貧しい家だと思うかもしれない。」
そこで女の子は、左右の腕に一連ずつのバングルを残し、残りのバングルを全て壊した。ところが、たった2つのバングルでさえ、多くの騒音を発した。女の子は、残りの2つのバングルも壊した。すると、彼女が脱穀を続けていても、騒音はしなくなった。

この女の子の経験から、次のことを学んだ。多数の人の中で暮らすことは、不一致、妨げ、論争や喧嘩を引き起こすことがある。2人の間でさえも、不必要な言葉や争いがあるかもしれない。修行に集中する修行者やサニヤーシン(出家者)は、世間を離れ、一人で暮らす必要がある。

21.蛇は、ねぐらにする穴を作らない。蛇は、他者が掘った穴に住む。同様に修行者やサニヤーシンは、自分自身で家を作るべきではない。洞窟や他者が建てた寺院に住む必要がある。これが蛇から学んだことだ。

22.弓矢を作る職人の心は、矢を研ぐことと矢をまっすぐにすることに、全神経を集中させている。このように職人が熱中して仕事に従事しているとき、ある王が全ての従者を連れて彼の店の前を通った。しばらくしてから、ある人がやって来て、王が彼の店の前を通ったかと尋ねた。職人は、何も気がつかなかったと答えた。
この事実は、職人の心がただ仕事にだけ没頭していて、彼の店の前を通ったのが何であるかを彼は知らなかったということ。この職人から、強烈な心の集中度を学んだ。

23.蜘蛛は、口から長い糸を出し、蜘蛛の巣を編み上げていく。蜘蛛は、自分が作ったネットの中に自分自身が絡まっている。同様に、人は自分の考えでできたネットを作り、その中に絡まっている。それゆえ賢い人は、世間的な全ての思考を手放し、ブラフマン(根本原理)だけを考える必要がある。これが蜘蛛から学んだレッスンだ。

24.カブトムシは、ミミズを捕まえ、巣の中にそれを置き、針で刺した。かわいそうなミミズは、カブトムシが戻り針で刺されることを常に恐れ、常時カブトムシのことを考えていたら、カブトムシそのものになっていた。
人は、それが何であれ、その人が常時考え続けている姿形となる。その人が考えるように、その人はなっていく。
このカブトムシとミミズから学んだ。常時アートマン(真我)のことを熟考することによって、自身をアートマンに変えようと。このようにして、全ての身体への愛着をはずし、完全なる魂の解放を達成しようと。


ヤドゥ王は、ダッタトレーヤの教えに非常に深い感銘を受け、世捨て人となり、真我への瞑想を常に実践するようになったという。

霊的成長を求める人は、ダッタトレーヤのように、毎日あなたに起こる事象から、霊的な学び(叡智)を得ていただきたいと願う。


ダッタトレーヤ神の祀られている寺院の中で、インド西部グジャラート州ジュナーガルにあるギリナール山は、巡礼の地として有名だ。
標高1039mの単独の岩山で、石段が9999段あるという。
 
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om tat sat.
om namah shivaya.
皆様にたくさんの祝福と恩恵がありますように、お祈りいたします。



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